今日読まれた福音は、ルカ福音書の序文と、イエスの公生活の最初の頃の話が組み合わされています。1章からいきなり4章に飛んでいますが、その間にはマリアへのお告げ、ご降誕、イエスの洗礼、荒野での誘惑などの話がありました。
ナザレの会堂でイエスは、手渡された預言者イザヤ書の「主がわたしを遣わされたのは、とらわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」という箇所を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始めました。わたしたちは洗礼を受け、神の子どもになったことで、とらわれていることから解放され、視力が回復し、主の恵みを感じることができるようになったはずです。見えるためにはまず光が必要です。「すべての人を照らす真の光はこの世に来ました」。キリストの光をいただいてわたしたちはキリスト者としての見方ができるようになります。先週の金曜日(25日)は聖パウロの回心の記念日でした。パウロは聖霊によらなければ、誰もイエスは主であるということができない(1コリ12.3)と言います。聖霊の次に大切なことは目覚めていることです。神の声、神のみ旨を聞くためには、目覚めていること、耳を澄まして聴く態度と祈りが必要です。わたしたちが信者として成長できないのは目覚めていないからだと思います。
イエスは会堂で預言者イザヤの言葉が「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と言いました。聖書の言葉がどのようにして実現するのかというと、それには三つの条件が必要になります。1つは、預言の言葉を語る人が必要です。2つめは、預言の言葉を聞く人が必要です。3つめは、預言の言葉を実現するイエスがそこにおられるということです。預言が実現するその中心には、必ずイエスがおられます。わたしたちは聖書の言葉、イエスの言葉を受け入れているでしょうか。福音は受け入れる人の心を通って救いをもたらす神の力です。福音を受け入れることによってわたしたちはみ言葉に力を与えます。これは、山本神父がいくら偉そうに説教をしても、神のみ心に背く生活をしているなら、何も伝えることができないということと同じです。みなさん、うわべだけでなく、心から神の言葉を受け入れた生活をなさってください。どんな人が救われるかは、外側からではわかりません。立派な信者さんと思われる人でないかもしれません。
先日、面白い話を読みました。イスラエルでは交通事故で亡くなる人が非常に多く、運転マナーが悪いそうです。「あるラビとバスの運転手が同じ日に亡くなり、天国の門にある天使たちの検問所に行きました。バスの運転手のほうはすぐに天国に入る許可を受けます。しかし、ラビのほうは少し待つように言い渡されます。そこで、ラビは憤慨し、「あの運転手は非宗教的な人間で、安息日も守っていなかった。それに比べわたしは掟を守り、毎日人々にタルムードを教えてきた・・・」と不満を言います。「それは分かっている」天使の一人が答えました。「あなたが教えを説いたとき、人々を祈りに誘うのではなく、眠りに陥らせた。しかしあの運転手がバスを走らせた時は、皆が真剣に祈っていたのです」 *(GO)