教会の典礼暦の新しい一年が始まりました。待降節はラテン語ではAdventus(アドヴェントゥス)と言い、これは到来を意味しています。待降節は主日が4回あり、前半の2回は、終末におけるキリストの到来が、後半の2回は主の降誕における到来がテーマになっています。第一の到来と世の終わりの第二の到来にはいくつもの共通点があります。どちらもキリストが来られること、またどちらも神の国をもたらすために来られること、初めの到来は神の国をもたらし、第二の到来は神の国の完成をもたらします。また降誕も再臨もどちらも喜ばしい出来事です。
今日は待降節第1主日なので、クリスマスではなくて、世の終わりにおけるキリストの再臨(第二の到来)がテーマです。今日の福音の最後は「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」という言葉です。わたしたちはキリストの前に出る準備が出来ているでしょうか。今年の9月3日早朝に、北海道では最大の震度7を観測した胆振東部地震がありました。あの時、厚真町では、土砂崩れに巻き込まれた36人が一瞬のうちに亡くなりました。亡くなった人たちはだれも、明日の朝、自分が神の前に立つことなど考えないで眠りについたと思います。人の命はあっけないものです。
昨日、わたしは「人の子」についてフランスのカトリック作家・モーリヤックの「人間が“人の子“から遠ざかれば遠ざかるほど、人間でなくなる」という言葉を読みました。「永遠の神のおん子であるキリストは、ご自分を、「人の子」と呼ぶのをいとわれなかった。ただの人間にすぎないわたしたちを「神の子」にするために。…人は、人の子に近づけば近づくほど、人間としての完全さをまし、神へと登っていく。しかし、人の子から離れるとき、人はその偉大さと価値を失い、理性のない動物になりさがっていく」(三分の黙想1 F.バルバロ編より)。とても深い言葉でした。
目を覚まして祈ることは人の子に近づくことです。いつまでもこの世で生きながらえることではなく、神のもとに出ること、本当の幸せの国に入ることを考えてください。今ある健康もお金も何一つ持っていけません。いま持っているものはみな置いていきます。本当に大切なことは祈ることでわかってきます。一日5分でも10分でも時間を作り、祈ってください。今よりも多く祈ることによって、わたしたちは変わっていけます。お風呂に入浴剤を入れると体が温まるように、祈りを工夫すれば内面が豊かになっていきます。イエスは「いつも目を覚まして祈りなさい」と言われました。祈ることは、自分を見つめること、姿勢を正すこと、よりはっきり見えるようになることです。わたしたちは普段「人の目」は気にしているのに「人の子の目」、神の前に立つことを忘れて生活していると思います。待降節は心の成長の季節です。良い決心、何かの犠牲や捧げ物を準備し、祈りや黙想を充実させること。隣人に対する愛の行いなど、一人ひとりが、自分ができることを決心し、キリストとの出会いに備えましょう。 *(0)