今日は年間最後の主日で、王であるキリストの祭日です。この祭日は、1925年に、教皇ピオ11世が回勅をもって、「王であるキリスト」の祝日を定めたものです。教会は、この祭日を祝って、世の終わりが滅びの時ではなく、神の国の完成の時であること。また、キリストが宇宙の支配者であること。キリストが再び来てくださることを考えます。今のわたしたちには王といわれてもしっくりきません。王はもう時代遅れ、今は民主主義の時代と思ってしまいます。しかし古代では王のいない国は考えられませんでした。ピラトはイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と質問しました。ピラトは、ユダヤ人たちが連れてきたイエスが、この世的な政治権力を望む「王」なのかどうか、自分の職務や地位を脅かす存在なのかどうか、という一点にしか関心がなかったので、イエスとの会話が根本的にかみ合いませんでした。イエスはピラトに「わたしの国はこの世に属していない」と言いました。わたしたちはイエスを真理の源である御父から遣わされた救い主であると信じています。イエスは「(わたしの言葉に留まるならば)あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と言われました。わたしたちがイエスについていくなら、神の愛以外の何事にも縛られない、本当に自由な生き方を選ぶことになります。

 昨日はベトナムの殉教者たち、聖アンデレ・ジュン・ラク司祭と同士殉教者の記念日でした。キリストの国はこの世に属していないことを、多くの殉教者たちが命を差し出すことによって証しています。また昨日のミサの福音には「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(ルカ20.38)という言葉がありました。わたしたちの神はいのち、神は愛、神は真実、神はわたしたちが死ぬことを望んでいません。神はわたしたちが生きることを望み、わたしたちに永遠のいのちを与えようとしておられます。人間が神の愛にはっきり「はい」と言おうとせずに、その永遠のいのちが中断された時に、神はイエスをわたしたちに遣わされました。それは、イエスがわたしたちと共にあって、わたしたちの名においてその大いなる「はい」を言い、わたしたちを永遠のいのちに戻してくださるためでした。

 わたしたちが永遠のいのちを考えることは、今の仕事、今の人生をよりいっそう熱心に考えることにつながります。永遠のいのちは今の生き方によって決まるからです。わたしたちは毎日の生活をキリストと結ばれてしっかり生きなければなりません。この季節、わたしたちはいろいろなことに気を使います。天国や永遠のいのち、死後のことについても今は考える時なのです。永遠のいのちに至るたべものであるご聖体、神の子としてのいのちを支える多くの秘跡と祈りを大切にしているでしょうか。キリストの復活はわたしたちの死後のいのちの保証になっています。「わたしは復活でありいのちである。わたしを信じるものはたとえ死んでも生きる」(ヨハネ11.25)。でも、わたしたちは一度死ななければ永遠のいのちはもらえないのです。キリストと共に死んでいるなら、彼とともに生きる。(2テモテ2.11)のです。  *(G)

2018年11月22日
聖セシリアおとめ殉教者記念日
撮影 山本司祭

街では、今年初の雪景色です。