秋になって木々が紅葉すると落葉が始まります。神居修道院のモミジやイチョウの木も次から次と葉を落としています。秋になると葉が落ちるのは、植物が老廃物を葉の中に貯めて、1年に1回、落葉することによって捨てているからだそうです。まもなく11月、死者の月が来ます。わたしたちは、神の前に出るために、集めることより、捨てること、身を削ることを考えるべきです。人間は、若い時は集めること、経験を積んで成長すること、目に見える世界を大切にします。しかし年を重ねるにつれて、目に見えない心の世界に目を向けて行くべきです。
今日の福音は、エリコの町のバルティマイという盲人の物乞いが癒された話です。エリコの町は北のガリラヤ地方からエルサレムを訪れる人たちが、最後にこの町に一泊して身支度を整えて、エルサレムに旅立った町でした。過越しの祭りが近づいていた時期には、多くの巡礼者でごった返していて、そんな状況の中で、道端でこの物乞いは叫んでいたのです。「多くの人が叱りつけて黙らせようとした」のに、この人はありったけの声を張り上げていたと思われます。イエスは立ち止まり、この男を呼んでくるように言われました。そのとき、男は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来ました。聖書が「上着を脱ぎ捨て」と記しているのは深い意味があります。わたしは、この男がイエスと出会って、それまでの古い自分を脱ぎ捨てて、新しい命を与えられていった姿が示されているような気がします。わたしたちはある時点でイエスに呼ばれました。今、洗礼を受けてからの歩みを振り返って、これまでよりどころにしてきたものを脱ぎ捨ててでも、イエスに信頼を寄せて生きてきたという実感があるでしょうか。イエスがわたしを呼ばれたのに、わたしが最後に信頼するものは、何か別のこの世のものなら寂しいことです。
自分は見えると思っていても、ほんとうに大事な物が見えていないのが、わたしたちの現実です。『もっと見えるようにしてください』と神様に願いましょう。わたしたちがよく見えないのは、自分の目の中に丸太がある場合があります。さらに、ファリサイ派のように、古くて硬い考え方の場合もあります。さらに目覚めていない場合もあります。教皇フランシスコは以前こんな説教をしました。「神がわたしたちに願っておられることは、出会うために目覚めていることです…祈りと秘跡によって信仰を生き生きと保つこと。居眠りをしないよう注意することです。まどろむキリスト者の生活は悲しい生活であり、幸せな生活ではありません」
キリスト者は「ボーッとして生きて」いてはダメなのです(チコちゃんに叱られる風に)。自分はどこに向かっているのか。なにが一番大切なのか。今は何をすべきなのか。いつも目覚めて考えていましょう。わたしたちは「主よ、目が見えるようになりたいのです。」と願いましょう。さらに、助けを求めている人に「うるさいから黙っていろ」と言う人でなく、イエスのところに連れて行ってやる人になりましょう。 *(TA)
修道院中庭の紅葉風景です。写真提供 山本司祭