このところ主日の福音はヨハネ福音書6章の聖体に関する話が続いていました。今日はその結びの箇所です。先週の福音でイエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」と言われました。この言葉がわからなかった弟子たちの多くがイエスの元から離れていきました。今日の第一朗読は、ヨシュアがイスラエルの全部族をシケムに集め、あなた方は、バアルのような異教の神々を選ぶつもりか、それとも主に仕えるのか、と決断を迫った箇所です。いつの時代でも人々は自分の身勝手でイエスや神から離れていきます。これは、今の教会にもあります。信者名簿に名前があっても行方不明の人、教会から離れている人がたくさんいます。話は変わりますが、わたしは今日、もともとは旭川から士別教会のミサに行く予定でした。しかし、一昨日(24日)10歳年上の兄が亡くなり、葬儀のため昨日から札幌に来ています。また、偶然ですが、以前、札幌にいた長尾神父さんもお兄さんがなくなり、葬儀のため昨日と今日は美唄に行っています。それで今日は、旭川地区の二人の司祭が同じ日に自分の担当する教会を離れています。
今日の福音には「命」という言葉が3回出てきます、「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない」。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」です。わたしは、精神科医としてまたホスピス医として多くの人を看取ってきた柏木哲夫というドクターが、「生命」と「命」の違いについて書いていたことを思い出しました。この二つの言葉は使われ方が違います。生命は「生命保険」「生命維持装置」など期限があるいのちに使われ、「命」は「君こそ我が命」とか「命の泉」などの期限のないものに使われています。そして結論として、生命と使うときは限りある有限のいのちですが「いのち」と使われるときは、ずっと繋がる無限のいのちをさしているのです。と言っていました。わたしたちの肉体の生命にはいつか終わりがきます。しかし、霊の与えてくださる命は永遠に続く命です。わたしたちは永遠の命、キリストのいのち、神が用意してくださる命のことをもっと考えなければなりません。昨日、ある方から「病気が見つかって抗がん剤の治療を受けなければならなくなったので、祈ってください。」と電話をもらいました。肉体の命にはどうしても限界があります。
この世の中のことしか関心のない人たちは、「毎日毎日わたしは一歩ずつ墓場に近づいている」と言います。しかし、霊によって生きている人は「毎日毎日わたしは一歩ずつ天国の門に近づいている」と感じるはずです。皆さんはどちらですか?イエスの言葉は霊であり命です。イエスに結ばれている人は死を喜びをもって迎えることができます。人生の最後は「すべての衣がはげ落ちて魂がむき出しになる時」です。その時いくらお金があっても何の役にも立たず、永遠の命を確信する者は穏やかに死を迎えることができるようです。前出の柏木哲夫さんは、こういった穏やかな死を迎える人が人生の本当の実力者なのですと言っています。 *(S.11)