主日のミサの聖書朗読は3年間のサイクルになっています。A年はマタイ、B年はマルコ、C年はルカ。(ヨハネによる福音は主に毎年の四旬節と復活節に読まれています。) 今年はB年なので、年間の主日にはマルコ福音書が読まれています。しかしマルコ福音書は一番短い福音書なので、年間の34主日分がありません。そのため、今年の8月のように、1ヶ月ぐらいはヨハネ6章に載っているキリストの「命のパン」の話が読まれます。
ヨハネ福音書は1世紀末か2世紀の初めに書かれました。紀元80年にユダヤ教はキリスト信者を会堂から追放するという決定をしています。ヨハネ福音書には「ユダヤ人」という言葉がたびたび使われていますが、福音書が書かれた時代のユダヤ人全般の反応を示していると考えることができます。聖体に関するイエスの言葉をユダヤ人たちは理解しませんでした。しかし、わたしたちは聖体を「永遠の命の糧」としていただきます。聖体は永遠に生きるための糧、わたしたちの旅路の糧です。車は燃料がなければ動きません。信徒は聖体拝領をしなければ信仰が衰えていきます。聖体は「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」という約束がついている食べ物です。また聖体拝領は神さまをこの世にお連れして共に歩むことです。
最近は司祭の現象と各小教区に司祭がいないため、ミサに与ることと、聖体を受ける機会がへってきています。しかし、良い方法があります。それは、霊的聖体拝領です。霊魂のために聖体拝領がどれほど大切かを熟知していたアルスの聖ヴィアンネ司祭は、「聖体拝領が霊魂に与える影響は、消えかかっているが、まだ火種が残っている火に吹き込まれたふいごの一吹きのようなものです」。といって毎日の霊的聖体拝領を勧めています。また、聖アルフォンソ・リゴリや多くの聖人たちも同用に、イエス・キリストへの愛に進歩したいと望むなら、霊的聖体拝領をするよう勧めています。霊的聖体拝領のためには、断食の規定も、回数の制限、まして誰かの許可を受ける必要もありあせん。
古代の教父たちは、『強い命のものは弱い命のものを吸収して生きていきます。植物は鉱物を吸収して、動物は植物を食べて生きています。「生きたパン」であるキリストは永遠の命を持っておられるから、私たちより命の強い方です。だから、私たちが普通の食事をしてその食べ物を消化して自分の体の一部に変えているように、ご聖体のうちにおられるキリストは、私たちを吸収してご自分の神秘体の部分に変えて下さいます。』と教えています。聖体の秘跡の場合は普通の食べ物の反対です。わたしたち自身が、自分が食べたキリストに変えられていきます。聖体の秘跡は、わたし個人がキリストに結ばれるだけではなく、信者同士の交わりの秘跡になります。パウロは「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではありませんか。パンは一つですから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(1コリント10:12-27)と言っています。
聖体の秘跡は共同体を作り上げる秘跡でもあります。どこの教会でも、まずミサが第一とされる共同体であってほしいです。
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