今日は年間第10主日です。日曜日に緑の祭服を使うのは4ヶ月ぶりです。先週の日曜日はキリストの聖体を記念しました。教会は毎年、キリストの聖体が祝われた週の金曜日にイエスのみ心の祝日を祝うように決めています。これはイエスのみ心の祝日が、聖体に対する多くの辱めと忘恩を償うことを目的に定められたことと関係があります。そしてイエスのみ心の次の日、昨日は聖母のみ心の記念日でした。
昨日、6月9日は、わたしにとって忘れなれない日でした。わたしは1965年(昭和40年)、高校3年生の時、洗礼を受けました。翌年の6月9日、わたしは大学に通う坂道を歩いていたとき、「司祭になりたい」と感じました。52年前のことです。その日は途中で授業を抜け出し、教会に行って主任神父さんに自分の気持ちを話しました。その神父さんからは「神学校は厳しいところなので、あんたには無理でしょう」と言われました。でも翌年の3月に大学をやめて神学校に入りました。わたしは家族で一人だけの信者でした。だから大学をやめて、司祭になる道を進むことは、身内からは猛反対されました。とくに母親は、子供たちがみな結婚し、孫の顔を見るまで自分は死ねないと思っていたので、わたしが知らない道に進み、結婚もしないことがショックだったようです。わたしは母には寂しい思いをさせました。
今日の福音では、イエスが多くの群衆に囲まれ忙しくしていたとき、イエスの身内の人たちがイエスを取り押さえに来たことが書かれています。イエスの身内の人たちにとっては、イエスがヨセフの跡を継いで大工をするのが当たり前だったのです。イエスは人々から「あの男は気が変になっている」とか、「あの男は悪霊にとりつかれている」と言われていました。マリア様がどう思ったかはわかりませんが、イエスの身内の者たちや親戚の者たちはイエスを理解できなかったのです。ここでちょっと寄り道です。(みなさんの中で名前に木へんの漢字が使われている人がいませんか。林さんとか橋本さんとか・・・その人は、木が偏になっている人ですよ。また、にんべんの漢字が使われているなら、人が偏になっていますよ。「伊」とか「仁」とか「信」・・・)
またイエスは、母と兄弟たちが来て、自分に会いたがっているのを知って、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言っています。これは、決して身内の人を困らせるためではなく、自分がこの世に来たのは、神のみ心にかなう新しい家族を作るためだと言っているのです。そしてこの新しい家族を結ぶ絆は血筋ではなく兄弟愛なのです。
パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちの地上の住みかであるこの幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」と述べ、わたしたちの「外なる人」が衰え滅びても、わたしたちの「「内なる人」は日々新たにされていかなければならないと述べています。わたしたちは「上にあるものに心をとめ、地上のものに心を引かれないようにしなければなりません(コロサイ3.1~2)」。わたしたちのこの身体はいずれ朽ち果てるものです。大切なのは「内なる人」「神の子のいのち」です。つよいしっかりした命になるようにキリストにしっかり繋がっていましょう。