今日は主の昇天の主日です。主の昇天は復活後40日目にありましたが、日本では復活節第7主日に祝います。今日の第1朗読は、使徒言行録のはじめの部分でイエスの昇天の出来事が書かれています。昇天はキリストの生涯の完成であるとともに、教会活動がはじめられる前提でもありました。昇天によってイエスは時間と空間の束縛から解放され、もっと私たちと身近になり、世の終わりまでインマヌエル(神がわたしたちと共にいる)となられました。マルコ福音書では、イエスが弟子たちに与えた全世界への派遣の命令と、主の昇天が書かれています。今日のミサの集会祈願には「主の昇天に、私たちの未来の姿が示されています」という言葉があります。主の昇天は、わたしたちの行く末を考えさせます。わたしたちも栄光に上げられたい。天国に入りたいと考えますが、そんなに簡単なことではありません。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものは多く、命に通じる門は狭くその道も細いからです。イエスは天に帰る前に、「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言いました。これは出向いて行きなさいという命令です。教会は「出向いていく」ことによって誕生しました。教皇フランシスコの講話集に『教会は自分の殻から出なければなりません。どこへ向かって?人間存在の「街はずれ」へ。それがどこであろうとかまいません。でも、外に出て行かなければなりません』ということばがありました。でも、現実にはどこの小教区も、これからどうしようと内側ばかり見ているような気がします。教会の役員のなり手がいない、お金も足りない、等々。教会は外を向いて福音を伝えていく使命があります。でも、弱さと限界を持った人間の集まりです。
昨日のお昼、修道院でこんなことがありました。12時に5人が食堂に集まりました。ところが手違いがあって、台所の方は3人分しか用意していませんでした。お腹はすくし食べるものは少ないし『誰が間違ったのか』と犯人探しになりました。でも、これは本当に愚かなことでした。まず「どうしたらいいか」と考えて、誰かが近くのコンビニに買いに行けば良かったのです。こんな愚かなことはあちこちであると思います。どうすることが最善かと考える、ちょっと賢い人がいれば、何も問題がなかったのです。今日の第2朗読の最後にパウロは、わたしたちが成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するようにと書いています。福音を伝えることは、ことばを発することだけではありません。わたしたちの生き方が問題です。どんなに立派なことを話しても、人から嫌われているなら何もなりません。キリスト者が他の人から、この人は幸せそうだなと思われる人、温かい人、やさしい人と見られるなら、キリストの福音は早く広まっていくと思います。
今日は母の日です。お母さん方おめでとうございます。そして今月は聖母月です。マリア様おめでとうございます。また今日はファチマの聖母の記念日です。ファチマの聖母は、毎日ロザリオを唱えるように勧めています。ロザリオの祈りも大切にしましょう。