今日の福音で、復活したイエスは集まった弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちが亡霊を見ているのだと思い、なかなか信じられないでいるので、イエスはその場で焼いた魚を食べます。イエスが最初に弟子たちにかけた言葉は「あなたがたに平和があるように」です。フランシスコ会訳の聖書では「あなたがたに平安があるように」となっています。この時の弟子たちの心境を考えるなら、平和より、平安の方がよりふさわしい翻訳だと思います。弟子たちは皆、イエスを否定し、見捨てて逃げた、後ろめたい気持ちを持っていました。

みなさんは、日曜日のミサに与り、復活のイエスと出会って、心が平和で満たされていますか。わたしは、説教を作っていて、さいたま教区の塩田泉という神父さんが、子どもと共に歌えるように作詞作曲した日本的な旋律の『キリストの平和』という曲を思い出しました。

♪ キリストの 平和が わたしたちの 心の 隅々にまで 行き渡りますように

キリストの 光が  わたしたちの 心の 隅々にまで 行き渡りますように

キリストの 力が  わたしたちの 心の 隅々にまで 行き渡りますように

キリストの 命が  わたしたちの 心の 隅々にまで 行き渡りますように ♪

イエスは、弟子たちが亡霊を見ているのだと思い、なかなか信じられなかったので、その場で焼いた魚を食べました。イエスは魚を食べるために現れたのではなく、弟子たちに聖書を悟らせ、彼らの心の目を開かせるためにこられました。イエスはメシアが苦しみを受け、三日目に死者の中から復活することを、モーセの律法と預言者の書と詩篇を使って説明しました。エマオに向かっていた二人の弟子は、復活したイエスに出会った時、道々聖書を説明してもらい、あの時、「自分たちの心は燃えていた。」と証言しています。わたしたちカトリック信者は聖書をあまり読みません。でも、教会に行っているから自分は安心と思っています。しかし、イエスとしっかり出会っていなければ、心の目は閉じたままです。アダムとイブは目が開けたとき、自分たちが裸でいることに気づきました。わたしたちもイエスと出会い心の目を開けてもらいましょう。

先日、ある尼僧が書いた面白い文章を読みました。「鏡に映った顔を見て、それをあなたの顔と思ってはいけない。映った顔から3割引いたものが、他人の目に映るあなたの顔だと思え。たいがいの女性は、自分がきれいだと思っているから、大きな顔をして町を歩く、でもやっぱり本当のところは3割引して考えなければならない。親の七光り、男性の場合は会社の七光りもある。知名度の高い一流企業にいることで、ハンサムに見えたり、お利口さんに見えるけど、実際の男前や知能程度や力はたいしたことがなかったりする。」

わたしたちは自分のことがよく見えていないので、勘違いしていることがあります。自分はどこからきてどこに向かっているのか。神の前に出たとき何が最も大切なのかを、イエスと出会って教えてもらい、キリストの平和をいつもわたしたちの心の隅々に行き渡らせてもらいましょう。   昨日の新聞に出ていた川柳「爺ちゃんはトイレとあの世近くなり」