今日は、聖なる過越の三日間の第一日目で、このミサは「主の晩さんの夕べのミサ」と呼ばれます。今日のミサでは、感謝の祭儀と司祭職の制定をはじめ、兄弟愛についての説教を行うように勧められています。共観福音書、すなわちマタイ・マルコ・ルカ福音書には、イエスが弟子たちとともに過越の食事をとった時、ご聖体を制定した記述があります。しかし、先ほど読まれたヨハネ福音書ではその記述がなく、代わりに最後の晩餐の時に、イエスが弟子たちの足を洗ったことが書かれています。イエスの洗足という行為は、生涯を神へささげ、隣人へ奉仕してきたイエスの生き様を象徴します。今日の福音の冒頭に「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。そして「食事の席から立ち上って上着を脱ぎ…弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められた」と続きます。ご聖体の制定と弟子の洗足は、全く関係がないように思われますが、互いに支え合う存在です。共観福音書における聖体の制定は、キリストがパンとぶどう酒の中に存在し、人々のいのちの糧として自分を捧げることでした。そして聖体の祭儀を「わたしの記念として」行うように命じました。これは、人々のためにいのちを与え仕えたイエスの生き方を弟子たちも見習って続けなさいということです。イエスは弟子たちの足を洗った後、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われました。イエスはへりくだって仕える者になりました。日本語の「足を洗う」という言葉は、もともとは仏教からでた言葉で、修行僧が汚れた足を洗い、俗世間の煩悩を洗い清めたことに由来していて、悪い仲間から離れる。好ましくない生活をやめる。職業・仕事をやめることを指しています。わたしたちは、悪いことから抜け出すだけでなく、愛すること、奉仕することをいつも心がけなければなりません。

昨日、わたしは渡辺和子シスターの「愛することはゆるされること」という本を読みました。渡辺シスターは、キリストは復活したあと、自分を見捨てて逃げた弟子たち、自分を裏切った者たちを責めませんでした。ペトロが三回キリストを否んだことも、彼の三回の愛の告白でゆるしました。キリストは、愛することをゆるしの条件としていたようです。ご自分の足を涙で拭った罪の女には「この女は多く愛したから多くの罪をゆるされた」と言っています。そして、多くの罪をゆるしていただかないといけない人間は、もっともっと他人に優しくならないといけない。と結んでいました。わたしたちは、罪が多いからたくさん愛さなければなりません。神を愛することは、奉仕すること、助けを求めている人、弱い、小さい、無力な人の求めに手を差し伸べることです。

先日、森友学園問題で、佐川前国税庁長官の証人喚問がありました。国の優秀な役人が、強い者をかばい、自分は泥をかぶると決め込んでいるみたいで、なにか情けないと思いました。いま春の選抜高校野球が行われています。こちらの方は爽やかです。キリストは自分が死ぬことで多くの人を生かす、送りバント人生に徹したお方でした。