今日の受難の主日からいよいよ聖週間が始まりました。今日は祝福された枝を持ち帰ります。この枝は魔除けではなく、救い主である王としてのイエス・キリストを思い起こし、受難、十字架上の死と復活を思い起こすために飾ります。

先週の21日、春分の日に、札幌の北1条教会で司祭叙階式と助祭の叙階式がありました。札幌教区に新たに佐久間力新司祭が誕生しました。20年くらい前、わたしが旭川5条教会にいた頃、佐久間くんは5条教会での青年の集まりによく顔を出していました。また帯広出身の簑島神学生が助祭に叙階されました。彼は来年司祭に叙階されます。

叙階式が11時から始まり、祝賀会は新しくできたカトリックセンターで1時過ぎから始まりました。多くのお客さんでしたが、そこで、びっくりしたことがありました。司教様や新司祭のあいさつの前から、ご馳走を食べている人たちがいたからです。あとで解ったのですが、その日はホームレスに食事を提供する日だったので、その人たちも「祝賀会の時にどうぞ食べていってください」と言ってあったそうです。『それにしてもお行儀が悪い、礼儀知らず、非常識だ』とわたしはその人たちの振る舞いに嫌悪を感じました。聖ジェラルド・マイエラは「ご聖体は見えないキリストであるように、貧しい人と病人は見えるキリストです」と言っています。わたしはこの人たちの中にキリストを見ることの難しさを感じました。自分の価値観や考え方と違う人がいた場合、その人を受け入れるのではなく、排斥することを、わたしたちはいつもやっているような気がします。

今日、枝の祝福の後に読まれたエルサレム入城の福音では、人々はイエスをまるで王を迎えるかのように、大歓迎して迎え入れました。人々はイエスが、ユダヤをローマ帝国から独立させ、自分たちの国を作るための革命を起こす人物だと思っていました。しかし、イエスが思っていたのは、神とはどのような存在なのかを伝えることでした。当時の人たちは、身体や精神に障がいがある人、重い皮膚病を患っている人、経済的に貧しい人などは、神からの祝福がなく神から見放され、社会から排斥されるべき人とみなしていました。しかし、イエスは、こういった人たちも神から創られた大切な人である。神はその人たちをも祝福し、救おうとしているとして大切にしました。律法を重視していたファリサイ派や律法学者たちは、イエスが自分たちを批判し、社会秩序を乱す危険人物に思えたのです。

イエスは、子ろばに乗ってエルサレムに入られました。謙遜に「主の名によって」来られたイエスは、わたしたちの町にも、わたしたちの生活の中にも同じように入り、その愛の力によってわたしたちの罪を赦し、神と和解させることを望まれています。イエスは「自分を無にして」「へりくだる」ことを通してわたしたちを贖われました。人々は、最初は歓声で迎えたにも関わらず、あとでは、誰もその運命に対して責任をとろうとしませんでした。イエスは人々の無関心を肌で感じられました。わたしたちは今日、世界中で、多くの人から無関心を示され疎外された人々や難民たちのことも思い起こしましょう

また、今日は「世界青年の日」です。日本の教会は若い人がいないので寂しいですね。