今週の木曜日から2月になります。わたしは、もう2月か早いなと感じています。若い人なら、まだ1月かと思うかもしれません。年を取ると時間の経過を早く感じます。「生涯の、ある時期における時間の心理的な長さは年齢に反比例するという」ジャネーの法則 (19世紀フランスの哲学者) があります。
今日の福音で、イエスは汚れた霊を追い出しました。節分が近いので、この季節にぴったりの福音だと思いました。節分の豆まきでは邪悪なものを追い出す意味で「鬼は外」といい、そして「福はうち」といいます。イエスは会堂で汚れた霊に取りつかれた男の悪霊を追い出されました。わたしたちも自分の心の中に住み着いてしまった邪悪なものを追い出してもらわなければなりません。それはわたしたちの中に居つき、わたしの中で大きく成長し、がん細胞のようにわたしたちをダメにしていきます。最初は少しだけ、世の中のみんながそうだ。どうせ誰にもわからない。そう思って妥協し、自分を甘やかすことから始まります。一つの例として、最初からそうでなかったでしょうが、どこの教会でも、ミサにいつも遅れてくる人はだいたい決まっています。職場にいつも遅刻していくなら、社会人として恥ずかしいことです。ミサは神の方からわたしたちに語りかけてくれる場です。またミサは教会共同体にとっての大切な時です。そこに遅刻していくのは、神に対して、共同体に対して失礼なことです。でも長年同じようにしていて、誰も注意してくれないと、遅れることが当たり前で、それが自分の特徴だと勘違いしていきます。実際は愚かなことです。たまに普通に行くと皆から「今日はどうしたの、珍しい。」と言われます。
イエスの宣教の初めのことばは「悔い改めて福音を信じなさい」でした。悪いと思っている、あるいは少しは後ろめたい気持ちを持っている時は、改善することが可能です。しかし厄介なのは、自分は正しいことをやっている、何も改めることなどないと、信念を持って突き進む人です。わたしたちは自分のやり方、自分の今の選択の他に、もっと神が喜ばれる別のやり方、生き方があって当たり前だと、考えるべきです。心を柔らかくしてスイッチを入れ換えることが大切です。
今日の福音でイエスは権威ある者として教えられました。わたしたちはつい権威と言うと権威を振りかざすとか、権威をかさに着るとか、抑圧的なことを想像してしまいます。ここで「権威」とあるのは、言葉と行いが完全に一致しているさまを表します。「囚われている人に解放を与えるために来た」イエスは、汚れた霊に取りつかれている男性を解放して、言葉と行いが完全に一致していることを証明しました。世の中には権威を持っている人がいます。医者は病人に対して権威をもっています。親は子ども対して、先生は生徒に対して権威をもっています。イエスは人間を苦しめている悪い力を追い出す権威をもっていました。わたしたちを苦しめ、縛りつけている考え、習慣、病気、対立などからイエスにすがって解放してもらいましょう。