皆さん主のご降誕おめでとうございます。クリスマス・イブだった昨日は、午前中には待降節第4主日の合同ミサがありました。夜は市内の各教会で、主の降誕の夜半のミサがあり、祝賀会のあった教会もありました。わたしは真夜中にもミサをしたので、ずっとミサ続きでした。毎年、主の降誕の日中のミサは、まだ仕事や学校があって参加者が少なく、司祭も前日のミサの疲れが残っていて、お茶で言うなら二番煎じのような感じのミサになってしまいます。朗読される福音も、クリスマスの情景を思い起こさせる個所ではなく、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」というヨハネ福音書の冒頭の個所が朗読されます。

ヨハネ福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。」とわかりにくい話から始まっています。ある中国の聖書翻訳者は「ことばよりも〈道〉のほうが東洋人には理解しやすく、また深い内容を持っているので、「初めに言があった」という句を「初めに《道》があった」と訳したほうが良いと主張しているそうです。わたしが神学校のときに習ったドイツ人の教義神学の神父様も《キリスト道》という言い方をしていました。道は究めがたい奥が深いことを示しています.茶道、剣道、柔道、華道などと動がつくと単なるおけいこ事ではなく、どこまでいっても奥深いものになり、修道院、神道、道徳、道理などもあるべき姿を求める姿勢を示しています。その神父様から《キリスト道》は究めがたいキリストの教えと生き方であり、《キリスト教》になると人間的な要素が多く入り、道からそれて、自分たちこそ正当だ 異端だと仲間争いをしたりする人間くさいものになる。と教わったように記憶しています。キリストは自分を「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました(ヨハネ14.6)。キリスト信者は道であるキリストを御父に向かって歩みます。道であるから究めがたい、何処まで行っても究めつくすことができないことを考えてください。自分はもう信者として、長くやってきた。知識もある。そういったことはキリストの前ではたいした価値がないのです。「主よ、主よと言う者が天の国に入るのではなく、父の御心を行った者だけが天の国に入れる」ということを心にとめましょう。

クリスマスには洗礼を受けた方もたくさんいると思います。もう一度、自分が洗礼を受けた信者としての出発点を思い出してください。もっと素直で、純真で、神の恵みをいただくことに敏感であったと思います。

赤ちゃんになって神の御子が私たちのうちに来てくださった。これは今もご聖体になって私たちに来てくださるキリストを思い出させます。聖母と聖ヨセフが心を込めて幼子を育て世に送り出されたように、ご聖体をいただく私たちは自分のためではなく、多くの人のために御聖体をいただくのだと考えてください。「はじめに言があった」ということからキリストの道について考えました。わき道にそれてしまった自分の信者生活を反省できたのなら、よいクリスマスになると思います。