今日から待降節に入りました。教会は、待降節をキリストが誕生された日、クリスマスを待ち望み準備する期間として過ごします。また、待降節の前半は、終末におけるキリストの再臨に私たちの心の目を向けさせる終末的色彩の濃いときでもあります。歴史は、人間の数限りない神へのそむきと、それにもかかわらずたえず人に回心を呼びかける神のいつくしみとで織りなされていますが、まさに、待降節はこの人間の罪の闇と、いつも人間を受け入れてくれる神の愛のあたたかさのコントラストが最もはっきりしている季節です。待降節には主日が4回あります。第一主日は、「目覚めて待つ」第二主日は「主の道を整える」第三主日は「主は近い、喜べ」第四主日は「みことばは人となった」とそれぞれテ-マが決まっています。

今日の日曜日は、「目覚めて待つ」ことがテーマです。冬の朝は、なかなか布団から出るのがつらいので、目覚し時計と格闘している人も多いと思います。もしこれが、通常の学校や会社に行く朝ではなく、家族やグループでの旅行やデートなど楽しいことがあるとすればどうでしょう。目覚ましが鳴る前に目が覚めるのではないでしょうか。今日のみことばの中でイエスは、4回も「目を覚ましていなさい」と言われています。「目を覚ます」とは、肉体的に「いつも起きていなさい」ということではありません。数週間前に、「賢い5人の乙女と愚かな5人の乙女」のたとえ話がありました。その時にもイエスは、「目を覚ましていなさい。」(マタイ25・13)と言っています。愚かな乙女は、花婿の到着が遅くれることを予測できず、予備の油を準備しないまま花婿を迎えていたのでした。イエスが言われる「目を覚ましていなさい」ということは、いつも準備をし、周りに気を配りながら救い主を待つということです。

先日、横綱日馬富士の引退会見がありました。あまり強い横綱ではなかったけれど、わたしは彼に好感を抱いていました。16歳の初土俵から17年。体格の不利を猛稽古で克服して出世の階段を駆け上がり最高の位についていました。わたしは彼の昔の四股名が安馬(あま)だったので、プロの相撲取りなのにアマと言っていたのが気に入っていました。酒の席での暴力が発端でしたが、油断した気の緩みがあったのだと思います。目を覚ましていれば、こんな騒ぎには発展しなかったでしょうに残念です。すこし、認識が甘かったのだと思います。
キリストの再臨を待ち望むために「目を覚まして待つ」ことですが、考えてください。キリストの再臨よりも、わたしたちが神のもとに出るほうが早く来るのは確実です。イチジクの木がどうのこうのでなく、年金を受給するようになったらもう確実に神の前に出る日が近づいています。鏡に向かうと、しわが増えたとか髪が薄くなったなど自分の外見はわかります。でも本当に大切なことは、自分を神様の前に置かなければ見えてきません。神さまの前に自分を置いて祈ってください。自分の内面を整えてください。よい祈りをすることがとても大切です。心配事、嬉しいこと、感謝すること、悲しいことを神様に伝えてください。少しの工夫で私たちは変われます。お風呂に入浴剤を入れると体があったまるように、祈りの工夫で内面が豊かになっていきます。目を覚ましているだけでなく、よく祈ることも待降節の努力目標にしてほしいと思います。