今日は典礼暦の最後の日曜日です。今日の福音は有名な「最後の審判」の教えです。世の終わりの時にキリストが再臨し、すべての被造物は、完全に神の支配下におかれ、神の国に入る人と入れない人が分けられ、輝かしい神の国が完成します。主の祈りで私たちが「み国が来ますように」と祈っているのはこの時のことです。初代教会の人たちは、主の来臨がすぐにでもあると期待していました。新約聖書の最後の書物「ヨハネの黙示録」は、『主イエスよ来てください』(マラナ・タ)という言葉で終わっています。イエスの来臨を待望する教会の中で信者たちは、愛徳を実行して待つことが勧められています。
11月は死者の月です。典礼歴の終りが近づいていたので、このところの福音は、終末について考えさせる箇所が続きました。花婿が来た時、ともしびの油を用意できていた人と出来てなかった愚かな人、また先週のタラントンのたとえでは、与えられた能力をよく使っていたかどうかが問われること。
わたしは先日、墓碑銘の話を読みました。墓碑銘には経歴や肩書きなどを除いたその人の人となりに焦点が当てて書かれることが多くなります。『優しい心をもった人、ここに眠る』などと書かれたならとても嬉しいことです。自分の墓碑銘を死がまだ遠い健やかなときに作っておけば、必ず訪れる「死」を意識することになり「生」を充実させることにつながる、と鈴木秀子シスターが書いていました。その本に有名な芸術家やスターの墓碑銘も紹介されていました。
◆スタンダール(1783-1842)フランスの作家
「ミラノの人 書いた 恋した 生きた」。
◆カレン・カーペンター(1950-1983)米国歌手
「地上の星 天国の星」
◆ディーン・マーチン(1917-1995)米映画俳優
「誰かが誰かを愛してる」。
死と向き合うことはよりよく生きるきっかけになります。その本のタイトルは「死は人生で最も大切なことを教えてくれる」でした。
さて今日の福音ですが、わたしたちが神様の前に出た時、自分の人生のいろいろな場面でイエスとすれ違っていたことを知らされます。牧者によって右側に分けられた人たちは、「主よ何時わたしたちはあなたが飢えているのを見て…親切にしたでしょうか」と言っています、彼らは知らずにイエスと出会っていました。「いつも人には親切にしよう」「いつも困っている人を助けよう」と心がけている人は、知らずにイエスと出会っていく機会が多いと思います。わたしは身体が不自由です。コンビニなどで店員さんではないのに、ドアを開けて待っていてくれる親切な人がいると嬉しく思います。その人が神様の前に出た時、イエス様から「わたしのためにドアを開けてくれたこと何回」と言ってもらえるのかなと思います。どこでイエスに出会っているのか分からなくても、「小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたこと」を知っていれば、信者はすごく得をします。儲けという漢字は信者と書きます。自分の身近な人の中で、イエスを見つけることのできる人はさいわいです。左側に分けられた山羊さんにならないで、右側に分けられた羊さんになってください。