今日は年間第33主日です。教皇フランシスコは、今年6月に、カトリック教会に新しい記念日「世界貧しい人たちの日」を設けることを発表しました。そしてこの記念日は毎年、年間第33主日に記念されることになりました。今年のカレンダーには間に合いませんでしたが、来年のカレンダーからはこの記念日が書かれています。教皇はこの記念日が身近にいる貧しい人々に積極的に寄り添い、連帯する機会にして欲しいと希望を述べています。
さて、典礼暦年の最後が近づいて来ました。来週は年間最後の主日、王であるキリストです。先週の福音は、主が来られるとき目を覚ましていて灯火の油を用意しているものは幸い、という話でした。マザー・テレサはこの油についてこんなことを言っています。「わたしたちのランプの油の滴は、何でしょうか?それは毎日の生活の中の小さなこと。誠実さ、ちょっとした優しい一言、少しは人を思いやる心、このような、ささやかな沈黙や、表情や、思いや、言葉や、しぐさです」
今日の福音は先週の続きの箇所で、タラントンの話です。終末に向かって現在をどう生きるかを問いかける話です。二タラントンまかされた人も、五タラントンまかされた人も、共通している点は、それぞれのベストを尽くして実りをもたらしたことです。しかし、一タラントンまかされた人は、自分の能力を活かさなかったばかりか、他人と自分を比較して諦めてしまったのでした。「聖書と典礼」の解説では1タラントンは約20年分の賃金となっています。1タラントンは足らないどころか莫大なお金です。これはわたしたちに対する神の期待の大きさを表しています。自分の能力を活かさないことは罪です。そして、他人と自分を比較して落胆することも罪です。イエスが物語るたとえ話は、決して他人事ではありません。わたしたちは、どうでしょうか。他人をうらやましく思い、相手をおとしいれることに躍起となってはいないでしょうか。ひとりひとりが異なっているのが当たり前なのに、どうしても比較してしまう浅ましさが誰にでもあります。そのような狭さから抜け出さないかぎり、ほんとうに自分を高めることはできません。
目を覚まし、光の子として生きること。目を覚まして生きるとは、神の慈しみに敏感に気づいて感謝することです。自分のことばかりで、ゆとりのない生き方をしてきた人間が、神に気持ちを向けることで自己中心的な生き方から解放されていくとき、まことの目覚めが実現します。
修道院のわたしの向かいの部屋にいる戸田神父さんが、金曜日から台車を持ち込んで部屋の中を片付け始めました。東京の老人ばかり集められている修道院に移ることになったのかと思い話を聞いてみました。すると人生の終わりを考えての終活だそうです。戸田神父さんはいつも、「自分は後期高齢者だから」と言っています。誰もがいつかこの世から去り、キリストとの出会いの日を迎えます。みなさんの中にも後期高齢者の方が多いと思います。その高貴なお方はもちろんのこと、その他の方々も、どうぞキリストと出会う時のため良い準備をなさってください。