今週の福音は、先週の日曜日の続きの箇所です。先週、フィリッポ・カイザリア地方で、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と宣言し、「シモン・バルヨナあなたは幸いだ」とほめられました。ところがそのすぐ後で、イエスがご自分の受難を予告された時、ペトロは、イエスの言っている「神の国」をこの地上の国と勘違いしていたので、そのリーダーになる人が、苦しみを受けて殺されることは理解できず、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスをいさめ、「サタン、引き下がれ」と厳しく叱られます。イエスは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」また、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」と言われました。

先週、わたしは札幌の病院に、89歳になるわたしの一番上の姉のお見舞いに行ってきました。高齢で独り暮らしをしていたのですが、体調を崩し救急車で病院に運ばれました。わたしは、顔を見るのはこれがもう最後かなと思って会ってきました。本人は少し快方に向かっていたので、「もうすぐ家に帰る」と自分の希望をのべていました。でも、わたしは、「まだ、最後の大仕事が残っていて、本当に帰るところは別なところなんですよ」と思っていました。死ななければ、永遠のいのちもいただけません。どんな人もいつまでもこの世に生きてはいません。イエスは本当の幸せはこの世にはなく、死後にいただく永遠のいのちにあることをわたしたちに教えてくれました。

イエスが教えてくれた、永遠のいのちを手に入れるために必要なことは、富を手に入れることや上を目指すことではなく、自分の十字架を背負うことでした。わたしたちの世界はこの世での幸せを求め、いつも上に立ち頂点を極めること、より豊かになる、そういった上を目指しています。しかしイエスの生き方は根本的には上ではなく、下へ向かっていました。イエスは、律法を守ることのできない罪びと、病人、疲れた人重荷を負う人などをいつも心に留めていました。そしてイエスが世を救うためにとられた方法は、自分のいのちを差し出す方法でした。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われます。

わたしたちの人生から苦しみがなくなることはありません。でも、苦しみの中から新しい命が蘇ります。人は希望を失い、若さを失い、職を失い、健康を失い、愛する人を失い、笑顔や優しさを失うことがあります。でも、失ってからまたそこから別の命や希望、新しい出会いが生まれてきます。わたしたちは、キリストの教えに従って、神のために、この世の物や命を失っても、それが何倍にもなって返ってくると信じています。

パウロはローマの教会の人たちに「あなたがたはこの世に倣ってはなりません…何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と勧めています。この世は苦しみの上手な利用方法を教えてはくれませんが、イエスはその活用方法を教えてくれています。