昨日の聖木曜日、教皇フランシスコはバチカンで、ローマ教区の司祭らと「聖香油のミサ」を捧げられました。その中で、イエスの福音は「喜ばしい知らせ」なので、司祭は喜びを広めるように、福音宣教は高慢で厳格すぎることなく、神の優しさを伝えるものとなるように、そして司祭の説教は、可能ならば短く、主ご自身が触れるように、人々の心に喜びをもって触れるようにしなさいと話されました。このあと教皇は「主の晩餐の夕べのミサ」を、イタリア中部のパリアーノ刑務所で行ない、受刑者たちの足を洗われました。刑務所の礼拝堂付き司祭によれば、受刑者たちは教皇の訪問を願い、何度も手紙を出していたこともあり、皆、驚きと大きな喜びに包まれていたそうです。

聖金曜日を英語ではGood Fridayと言います。イエスの十字架はわたしたちに良いものをもたらしてくれました。それで今夜は苦しみの意味について考えます。わたしたちは毎日何かの苦しみを体験します。それを受け止めることをキリスト者は大切なことと考えなければなりません。イタリアでフォコラーレ運動を始めたキアラ・ルービックが、苦しみの意味についてわかりやすい言葉を述べているので紹介します。

「望むと望まないとにかかわらず、苦しみはすべての者にふりかかります。あなたにもです。毎日小さな、あるいは大きな苦しみがあります。あなたはそれを避けたいと思うのですか。それに反抗したいと思いますか。文句を言いたくなりますか。とすれば、あなたはキリスト信者ではありません。キリスト信者は十字架を愛し、涙を流しながら、苦しみを愛します。その価値を知っているからです。
神にとって、人類を救う手段は無数にあったにもかかわらず、苦しみをその手段として選んだのには意味があります。
イエスは十字架を運んで、その上にはりつけにされたのちに復活したことを思い出しましょう。

本当にキリスト者であろうとする時、出会わなければならない苦しみや、人生が与える苦しみを軽んじるのではなく、愛をもってそれを受け入れるなら、あなたもまた、復活の恵みにあずかるものとなります。その時、すでにこの地上においても、十字架は今まで味わったことのない喜びへの道であることを経験するでしょう。あなたの魂の生命は成長し始めるでしょう。あなたの内にある神の国は、しっかりとしたものとなり、あなたの外の世界は、少しずつあなたの視野から消え去り、それは価値のないものであることがわかってくるでしょう。そして誰もうらやむこともないでしょう。その時、あなたはキリストに従うものと言うことができます。

「わたしのあとに従いたい者は、おのれを捨てて、日々、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい」。あなた自身、あなたが従ったキリストのように、今日、無数の傷をつけられた人類をいやす光と愛になるでしょう。」(生命の言葉 キアラ・ルービック著)