今日は、四旬節第2主日です。古くからの伝統に従い、四旬節第2主日には毎年「イエスの変容」の場面が読まれます。教会が四旬節のこの時期に「イエスの変容」を考えさせるのは、十字架を通って栄光に至るイエスの道に弟子たちを招くためです。イエスの受難の予告は弟子たちにとって、とうてい受け入れられないショックな話でした。イエスは受難の予告の6日後に、数人の弟子たちに、受難と死の後のご自分の栄光の姿を示されたのです。
先週の日曜日、わたしは旭川でのミサのあと、美唄教会にミサに行ってきました。ミサの後で「灰の式」をしました。その時「あなたは塵であるから塵に還っていくのです」と言って頭に灰をつけたら、先頭の人が大きな声で「アーメン」と応えました。わたしは、「ここではべつに返事をしなくてもいいのですが、どうしても返事をしたい人は、灰の式だから、『ハイ』と言ったらどうですか」と言いました。そうしたらそれから後の人はみな従順に「ハイ」と応えたので、20人くらいでしたが、最後の方には吹き出しそうになりました。
わたしたちの現実は、あと何十年かしたら確実に灰に還っていきます。こういったもろいはかない存在であっても、神はわたしたちに復活の新しいいのちを約束してくださっています。
昨日、3月11日は東日本大震災から6年目の記念日でした。あの時、自然の力の恐ろしさを誰もが知りました。地震と津波の他に、さらに原発事故というもう一つの恐ろしいことが起きました。それまで原発はクリーンで安全なエネルギーと言われていましたが、あの事故で、原発はとんでもなく恐ろしいものであることに気づくことができました。本当の姿がわかったのです。
本当の姿といえば、先日、国有地格安払い下げ問題の学校法人が、小学校設置認可申請を取り下げました。これ以上問題が大きくなると、いろいろ危ないものが出てくるので、これ以上掘り返されないように急遽埋め戻して、蓋をしたように思えます。
わたしたちは塵に還っていくもろい存在です。でも新しいいのちに招かれています。人間が向かう本当の姿、将来の約束、こういったことを考えるなら、毎日の生活、人生をもっと別の角度から眺めることができます。生活の苦しみ、思うようにならないこと、四旬節に犠牲を捧げることにも、意味を見つけることができるかもしれません。
昨日の新聞に、東日本大震災から6年経ち、今でも12万3000人が避難生活をし、被災3県の仮設住宅に3万4000人が暮らしていると書かれていました。仮設住宅で思い出しましたが、教皇フランシスコが「仮の」文化について述べたことがあります。それは、今日では最終的決断をするのがたいへん難しくなってきていて、人は「一度きりに賭ける」人生を生きようとしなくなっている。愛が続くうちは結婚している。成り行き次第でどうなるかわからないと考えることが多くなっている。しかし、イエスとの関わりのなか、これはありえません、と言っています。困っている時だけ、元気なときだけ、楽しいことがあるときだけの教会とか信仰であってはならないのです。わたしたちは、世の中の声、時代の流れ、流行り廃りではなく、「キリストの声」に聞きしたがわなければなりません。天の父は「これはわたしの愛する子・・・これに聞け」と言われています。