今週の福音はマルコ福音書でのイエスの宣教活動の始まりの場面です。イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教活動を始め、最初の4人の弟子を召し出します。ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちがいきなり従った話は不自然なので、その前に彼らはイエスとの出会いがあったと思われます。普通に考えれば、弟子のほうが師事したい先生を見つけて弟子入りを願います。でも、弟子たちの場合は、イエスのほうが「わたしについて来なさい」と声をかけています。わたしたちも、わたしが選んだのではなく、イエスの方がわたしを呼んでいてくれたので今の自分があります。感謝しなければなりません。「神の選び」は、その人が優れているからその人を選ぶわけではありません。選びの根拠は人間にではなく、神のみ心にあります。神はすべての人を救うために、もっとも弱く貧しい人々を選ばれます。
「わたしについて来なさい」という、イエスによる呼びかけは、もともとは、「いっしょに行こうか」という意味です。相手と自分との関わり合いを愉しみつつも、二人三脚で歩む心強さを約束してくれる呼びかけです。わたしたちは、弱さや個人的な限界や欠点があります。でも、イエス・キリストとの関わりによって大きく羽ばたくことができます。わたしたちがイエスの弟子として生きていくことは大きな意味があります。わたしたち一人一人は、家庭や職場、それぞれの生活の場での召しだしがあります。わたしたちが幸せを感じていれば、福音宣教をしていることになります。幸せは伝染します。わたしたちはいろいろな人間関係のネットワークの中で生活しています。幸せな気分の人の周りには幸せな気分の人が多く集まり、憂鬱な人のまわりには憂鬱な人が集まります。イライラする人がいれば、周りにいる家族や友人にもイライラ感が伝わります。

教皇フランシスコは先週から南米のチリとペルーを訪問中です。1月17日にチリの首都サンティアゴで、青少年たちとの出会いを持たれました。その時、教皇は、若い人たちに、「いつもインターネットや携帯電話と繋がった生活をしていると、インターネットの接続が切れたり、携帯電話のバッテリー残量が無くなると、うろたえ、不機嫌になります。信仰もそれと同じで、イエスとの繋がりをなくしてしまうと、わたしたちの理想や、夢、信仰は失われ、わたしたちは不穏な心に満たされてしまいます。」と話され、イエスと常に繋がっていることが大切と言われました。

「わたしについて来なさい」というイエスの呼びかけにどう応えているか考えてみましょう。よい耳と素直な心が必要です。毎日の生活の中で、出来事を通して、人を通して、聖書の言葉を通して、イエスはわたしたちに呼びかけています。わたしたちは、自分の仕事、自分の生活が大事だ。遊びも気休めも…。と言っていると、イエスの弟子にはなれません。神の国を広めるために、イエスはわたしたちの協力を求めています。今日の福音の弟子たちはきっぱりイエスに従いました。何が大事かを見極めてイエスについていきましょう。