今日のミサは、昨年亡くなられたモニカT・Yさんの追悼のために頼まれています。わたしは、昨年1月、16年ぶりに旭川に戻り、最初に司式したお通夜が、大町教会のモニカT・Yさんでした。あれからもう一年たち、時の早さを感じています。そしてつい先日、主の降誕をお祝いしたばかりなのに、今日はもう1月の半ばで、年間第2主日です。

今日の福音で、洗礼者ヨハネは、イエスのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言い、「この方こそ神の子である」と証ししています。彼は最初、メシアについて厳格な恐ろしいイメージを抱いていたので、「斧はすでに木の根元に置かれている」などと言っていました。しかしイエスに会ったあとで、この方こそ罪と死の軛からわたしたちを解放してくれる「神の小羊」だという別のイメージを持ちました。それで「わたしはこの方を知らなかった」と告白しています。

今日は証しすることについて考えてみようと思います。証しという漢字は言遍に正しいと書きます。言う事と行ないがあっていなければなりません。キリスト教の殉教者達はイエスを何よりも大切にしていることを証明するために自分の命までも捧げました。これは血による証しです。わたしたちが「イエスがメシアです」と語ることは簡単です。しかし、行いや態度が伴っていなければ証しにはなりません。自分はキリストと出会ってこんなに幸せです。救われました、ということを態度で示してください。

教皇フランシスコは「福音の喜び」という使徒的勧告に、「小教区は・・・地域社会における教会の現存であり、みことばに耳を傾ける場であり、キリスト者としての生活の成長の場であり、対話、宣教、愛徳、礼拝、祭儀の場なのです・・・小教区は渇いているものが歩き続けるために水を飲みに来る聖域であり、たえず宣教者を派遣する中心です」(28)。と書いています。愛はつねに広がっていくものです。みなさん、どうか一人ひとりが、心の深いところで神さまとのふれあいを感じてください。そうしたら自分の幸せを誰かに伝えたくなっていきます。教皇は「他者にいのちを与えるときにこそ、いのちは成長し、熟成します」(10)とも言っています。でも、現実には教会には、自分のことで精一杯の人もいます。挨拶や笑顔も苦手な人もいます。先日、わたしはお正月なので、以前に買った、「福音川柳カルタ」を出してきて見ていました。その中に「(た)誰のこと?神より恐いキリスト者」というのがありました。

今週の20日には、アメリカ次期大統領の就任式があります。先日13日の毎日新聞・余録に「世界は当面、トランプ氏のののしりや攻撃のとげとげしい「声」に悩まされることになろう。「指導者」の高みとは無縁の米国大統領の誕生である。」という書き込みがありました。自国の雇用を守り、文化的な変革を避け、テロリストの攻撃を防ぐための理由で、人種差別や外国人嫌悪、女性蔑視、移民排斥を訴えることで権力を手中に収める指導者がこれからも増えていくならば、世界は恐ろしいことになると危惧する人たちが多くいます。世界の指導者たちのために、わたしたちはたくさん祈らなければなりません。このままでは、弱いもの、小さいものが、ますますひどい目にあわされる世の中に変化していきそうです。キリストは弱いもの、小さいもののためにこの世にこられました。  ()へぼ信者神より富を可愛がり、()この一年身を削っても目方増え