今日は主のご公現を祝います。クリスマスで救い主の誕生を祝いました。この救い主が世界のすべての人々のためであることを、たからかに宣言する日が主の公現です。三人の博士たちの礼拝を象徴とするこの祝いは、たぶんクリスマスと同じくらい、あるいはもっと古い祝日で、東方教会ではクリスマスよりも盛大に祝われています。ある学者は「今日の福音書の物語は、たぶん実際あったことというより、伝説のようなもので、キリストの深い意味を伝えようとしているのでしょう」と言っています。星に導かれて幼子のもとに来た人たちは、贈り物が三つだったので三人とされ、昔から、三人の博士とか、三賢者、三王と言われてきました。現代の新共同訳聖書では占星術の学者たちになっています。

羊飼いたちは天使のお告げで幼子を探し当てました。占星術の学者たちは直接のお告げではなく、自然の観察から星に導かれてエルサレムまでやってきました。教皇フランシスコは2年前の主の公現の日に、博士たちが幼子を拝むことができたのは、彼らが歩む勇気と、小さく、貧しい、弱い存在の前にひれ伏す勇気を持っていたからで、これに対して、ヘロデは自己崇拝という自分の眼差しを変えることができなかったので、幼子を拝むことができなかった。と話しています。わたしたちは直接のお告げでキリストを探し当てたのではなく、占星術の学者たちのように、何かの出来事、誰かの導きによってキリストに出会ったと思います。自分はどんなことで導かれ、誰の影響を受けたのかを考えてください。そして自分も誰かに対して導きの星となるように神様から期待されていることを考えてみましょう。

一昨日、1月6日はわたしの恩師、ニコラオ神父さまの命日でした。2007年に亡くなられたので、もう10年になります。わたしはニコラオ神父様が美唄教会におられた頃、初めて教会に行きました。その頃、教会は人で溢れていました。活気があり、さらに、ほっと落ち着ける空間がありました。わたしはそういった教会の雰囲気が自分をキリストにまで導いてくれたと思っています。教会の雰囲気、空間というものは、一人だけで出来上がりません。そこに属する人たちが作り上げていきます。その時の司祭は祈る人、愛が感じられる人でした。

福音を伝えることの中心は、いろいろなキリストの教えを示すことより、出会う人が励まされ、元気をもらい、愛を感じるかどうかだと思います。立派な、ごもっともな言葉ではなく、その人やその場の作り出す雰囲気がキリストを伝えていきます。祈りがあり、聖霊が働いている時、キリストが伝えられていきます。冷え切った殺伐とした人や場所からは何も生まれてきません。

みなさん、神様は自分を使ってどんなことをしたいのかを考えてください。占星術の学者たちは、黄金、乳香、没薬を贈り物として差し出しました。これらは貴重なもので、聖家族がエジプトへ逃げて向こうで生活したときの生活費に当てられたと考えることができます。イエスはわたしたちからのどんな「贈り物」を期待しておられるでしょうか。高価なものでなく私たちが出し合う小さなものでキリストは喜びます。ちょっとした微笑み、人のために使う時間、ひとこと、が教会の雰囲気をつくり出し、信者の雰囲気を作り出します。

syunokougen
『東方三博士の礼拝』
(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ)