11月27日に始まった待降節は今日から3週目の後半に入りました。待降節第3主日は、昔から来るべき救いを待ち望む「喜びの主日」と呼ばれています。入祭唱や集会祈願、第1朗読のイザヤ書には喜びという言葉がたくさん出てきます。今日は一年に2回だけの「ばら色」の祭服を使うことのできる日です(それを持っている教会だけですが)。わたしたちはいろいろなことを待ち望みます。幸せな結婚、子どもや孫の誕生、合格発表、ボーナスや給料や年金の受給日、子どもなら、冬休みやお年玉がもらえるお正月が待ち遠しいかもしれません。キリスト者は、「神の国の完成する日」あるいは「自分が神様と出会う日」を待ち望んでいるはずです。

昨日、アメリカのトランプ次期政権が新たな駐日大使の候補として、もとプロ野球千葉ロッテ・マーリンズの監督だった、ボビー・バレンタイン氏を検討している、というニュースがありました。もう20年くらい前になりますが、わたしがむかし、五条教会にいた頃、日曜日の朝7時のミサに、ロッテのバレンタイン監督が来ていた事がありました。旭川でプロ野球の試合があった時でした。だからそのニュースを聞き、もし彼が駐日大使になって日本に来たら嬉しいなと思いました。有名人に会っただけで嬉しいのですから、わたしたちがキリストの前に出る時は、すごく感激し、幸せの絶頂になると思います。でも、その時ではなく、今でもわたしたちはイエスと会うことができるのです。先日送られてきた、フォコラーレ月刊誌のUNOという冊子に、こんな言葉がありました。「わたしたちは直接、神を見たり仕えたりはできませんが、神の似姿、神の子である兄弟姉妹ならば、見て愛することができます。人を愛することにより、人の中におられる神を愛するのです。わたしたちが兄弟のためを思って言うこと、することは、神を思っての言葉、行為となり、兄弟に反感を抱きながら言うこと、することは、神に反感を抱いてのものとなります。わたしたちが誰かと出会う時、父なる神のみ前に立つかのように、敬意と愛とをもって、相手に近づく必要があるでしょう。兄弟姉妹を愛する、それは神を愛することです。隣人に仕える、それは神に喜んでいただく絶好のチャンスを手にすることです」(イジーノ・ジョルダーニ)。

またその冊子に「いつもクリスマス」というマザー・テレサの言葉が出ていました。

誰かに ほほえみかけ 助けの手を さしのべるなら そのたびに クリスマスがきます。
誰かの話に 静かに 耳を傾けるなら そのたびにクリスマスがきます。
抑圧された人々を 社会の隅に追いやるような考え方を 受け入れないなら そのたびに クリスマスが来ます。
物質的精神的な貧しさゆえ 絶望している人々に 寄り添い 共に希望を持ちつづけるな ら そのたびに クリスマスが来ます。
謙遜に 自分の限界と弱さを受け入れるなら そのたびにクリスマスが来ます。
主イエスが 再び お生まれになるようにし この主を 他の人たちに プレゼントするなら そのたびに クリスマスが来ます。

信仰によって主キリストと出会い、わたしたちのまわりに、クリスマスの喜びを運ぶ人になりましょう。