今日の聖書のことばのテーマは祈りです。第1朗読では、モーセはイスラエルの民が戦いに出たとき、丘の上で手を上げて祈ったことか書かれています。モーセが手を上げて祈っていた間、アロンとフルの二人が両脇でモーセの腕を支えたと書かれています。わたしは、めったに聖書に出てこないフルという人物は、この日はフル回転で忙しかっただろうと思いました。ちなみにこの人の着ていたものは古着だったかもしれません。

さて、福音はイエスが気を落とさずに絶えず祈ることを教えるために話された、不正な裁判官とやもめの話です。イエスは人を人とも思わないような不正な裁判官であっても、わずらわしいと思えばやもめの訴えを聞くのだから、まして神は昼も夜も叫び求める人の願いを聞いてくださらない訳がない、と教えておられます。しかし、困難や試練の時わたしたちが祈っても神が聴いてくださらないように思えるときがあります。でも神は沈黙しているのではなく、神の考えがあってのことです。もし、神がいつでもこちらの願いをそのまま聞き入れてくださるなら、わたしたちが主人で神はわたしたちの召使か便利屋さんになってしまいます。希望通りにならなくても、どんな祈りも無駄にはなりません。

祈りはキリスト者にとってとても大切なことです。どれだけ祈っているかによって、その人の値が変わってきます。祈ることはキリスト者のいのちの元、力の元、生命力そのものです。先日、うちの修道院である兄弟が「わたしたちは修道者であり、行者なのだから、立ち振る舞いに気を付けよう」と発言しました。その言葉でわたしは、『そうだ、わたしたちは修行者なのだ。終点がなくたえず道を追い求めるのが修行者なのだ』と感じました。そして以前に読んだ、青山俊董さんという尼僧の言葉を思い出しました。彼女は「“業“は生業(なりわい)。いうなれば生活の糧を稼ぐ作業である職業です。そこには始業もあれば終業もあります。修業もあれば卒業もあります。ところが、”行“となると生き方そのものに関わっていますから、修行こそあれ卒業なんてありえません。一生が行きた行の証しです。自転車が止まった瞬間倒れてしまうように、行の停止は死を意味します」と述べています。

皆さんは修道者でも、行者でもないのですが、信仰にはこれでおしまい、これで十分ということがないということを覚えてください。信仰を単なる人生の飾りやアクセサリーのようにしないでください。祈りを大切にしてください。マザー・テレサは「祈ることで心の器は大きくなり、神からの贈り物を受け入れることができるようになります」と言っています。祈ることで自分を変えていってください。

心を休めリラックスすることも大切ですが、テレビを消して心を静め、一人になって祈る時間をとってください。イエスの活動の基にあったのは、祈りによる神との交わりでした。祈る人は変わります。変えられていきます。今日の第二朗読でパウロは弟子のテモテに「み言葉を述べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい・・・」と勧めています。これはパウロが祈り、その結論として出てきた言葉だと思います。絶えず祈り、進んでいってください。