わたしは昨日、伊達のカルメル会修道院で、幼いイエスの聖テレジアの祝日のミサをしてきました。わたしは毎年、もう20年くらい続けて、10月1日の聖テレジアの祝日にはカルメル会でミサをしています。今年はわたしにとって区切りのいい年になりました。ちょうど50年前、わたしは洗礼を受けてまだ、1年2ヶ月の時、教会の図書から借りた幼いイエスの聖テレジアの自叙伝を読んで、司祭への召命を感じました。翌年、大学を中退して神学校に入り、10年後に司祭叙階されたので、今年は司祭叙階から40年になりました。わたしはこの聖人に出会わなかったら、おそらく司祭職を考えなかったと思います。

今年9月4日に列聖されたコルカタの聖テレサ(マザー・テレサ)は親からいただいた名前はアグネスでしたが、修道女になって、初誓願の時に、幼きイエスの聖テレジアを尊敬していたので、テレサという修道名を選びました。マザー・テレサが12歳の時、聖テレジアが列福され、その後すぐに列聖されました。マザー・テレサは、自分にとって、今世紀初めの第一次世界大戦より、より印象深い大きな出来事はリジューの聖テレジアの列聖だったと述べています。一人の聖人の生き方に影響されて、もう一人の聖人が誕生しました。わたしは19歳で思ってもみなかった進路を選択しました。

今日の福音は、本来は別々の場所にあった話が一箇所に集められた個所と考えられています。ですから、福音の前半は信仰のことが、後半は奉仕するときの心の持ち方がテーマになっています。信じるということは、知識として知っているだけでなく、時には人生を掛けるような信じ方もあります。男女が結婚する時、相手が将来どうなるのかわからなくても自分のすべてを賭けて新しい生活に入っていきます。自分の生き方、全生活に関わるような信仰があります。4日が祝日のアッシジの聖フランシスコは、良いところのお坊ちゃんだったのに、神の声を聞いてすべてを捨てて新しい生活に入りました。昨日が祝日だった幼いイエスの聖テレジアは15歳できびしい生活の修道会に入会しました。

信仰は一度決心したらそれでいいものではありません。愛情や健康のようにたえず変化します。どんな立派な結婚式や披露宴をしても、愛情が冷めてしまう夫婦がいます。日々相手を受け入れて理解しようと心がけていなければ、冷えてしまうのは信仰も同じです。名前だけ、日曜日だけ、困った時だけ、クリスマスだけ神さまを思い出す信者ではなく、いつでもどんな時も神様と結ばれている信者でいてください。

今日の福音の後半は、信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げたという世界ではなく、神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていくという世界です。『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。と書かれています。でも、わたしたちは、『しなくてもいいことをやって、しなければならないことをしない』こんなデタラメなところがけっこうあります。マザー・テレサは「大きなことをする必要はありません。小さなことに大きな愛をこめればいいのです」とよく言っていたそうです。