今日の福音でイエスは、律法学者やファリサイ派の人たちに向かって厳しい言葉を述べています。わたしたちカトリック信者も、洗礼を受けただけで努力していなかったなら、最後の時に「おまえたちがどこの者か知らない」と言われます。いつも狭い戸口から入るように身構えていなければなりません。長年信者をやってきた。今までずっと頑張ってきた、天国に宝も積んだ、あとはお迎えを待つだけ、などと安心していないでください。最後まで自分のできること、しなければならないことを考えて努力しましょう。手を抜いて休んでいいのは死んでからです。それまではいつも頑張っていなければなりません。神の国の入口は狭いのです。オリンピックの、柔道やレスリングの競技を観ていたら、積極的に攻めないで守りの姿勢に入ると直ぐに注意や指導がきていました。教会に高齢者が多くなり、後期高齢者がますます増えて、後期なお方ばかりになっても、自分にまだ何かできないか、役に立つことがないかと考える人が多ければ、そこの教会はいつまでも生き生きとしたすばらしい共同体でいられます。
マタイ福音書には、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言うものが皆、天の国に入るわけではない。わたしの父の御心を行う者だけが入るのである」という言葉があります。わたしはこの言葉を聞くと、お酒の好きな人は、いつも「酒よ、酒よ」だなと思ってしまいます。遠藤周作の小説の中に善魔という言葉が出てきます。自分の考えは何時も正しいと信じ、自分のしていることは間違っていないと考える人です。そしてこういった人は、周りに迷惑をかけていても、自分が悪いと思っていないのでタチが悪いのです。身勝手で独りよがりの信者ではなく、いつもこれでいいのかなと考える人になってください。
先週、わたしは、しばらく会っていなかった札幌にいる自分の兄弟たちに会ってきました。わたしより19歳上の姉は、体調が悪く、あまり食べられなくなり、点滴ばかりしていて体重が34キロになっていました。また、わたしの10歳上の兄も、近ごろめっきり弱ってきたというので、3年ぶりに会ってきました。この兄はもう歩くことができなくなり、耳が聞こえなくなったのに、補聴器をつけたがらないので、家の中にメガホンが置いてあって、それで奥さんが『お父さん、ご飯だよ』などと伝えていました。わたしは、自分もあと10年もしたらこんなふうになるのかなと考えてしまいました。誰もがみんな、100%死んで神様のところに行きます。天国の門のところには、入口がたくさんあると思います。一般の信者でない方用、信者さん用、そこにはさらには司祭の入口もあるように思います。もしかしたら、わたしたちが信者の入口で引っかかっているうちに、顔見知りの信者でない方たちが、西から東からやってきて、すっと入っていくかもしれません。多く与えられたものは多く要求されます。いただいた多くのめぐみに感謝して、ふさわしい実を結ぶように努力しましょう。マザーテレサは実りについてのこんな言葉を残しています。『沈黙の実りは祈り、祈りの実りは信仰、信仰の実りは愛、愛の実りは奉仕、奉仕の実りは平和です』。神との縦の関係がしっかりするなら実りも多くなると思います。