今週の朗読個所は第2朗読と福音がもっと短い方を選ぶことが出来るようになっています。これは暑い季節の、神さまからのサービスのように思えます。先週の福音はいつ神様から呼ばれるのかわからないのに、豊作だったからと蔵を建ててノンビリしようとした愚かな金持ちの話でしたが、今週のテーマも「あなたがたも用意していなさい」で先週と似ています。『主人が帰ってくる』『人の子は思いがけない時に来る』は終末のイメージがあります。世の終わりと個人の終わりについては、その時がわからないのだからいつ来てもいいようにしっかりと生活していなければなりません。
一昨日、司教館から、トラピスト修道院のパウロ高橋重幸神父様の訃報が入りました。この神父様は聖書学者で、日本の典礼委員会の仕事もなさっていました。わたしは札幌教区の典礼委員会で、長いあいだ一緒だったので、この神父さんから多くのことを教わりました。同じ日に大町教会で、大町の献堂25周年の写真を見せてもらいました。昭和40年代の写真と思われ、そこに写っていた冨澤司教様も司祭たちももう殆どが亡くなっていました。写真を見ていて、今の自分は、亡くなった多くの人たちから何かしらの影響を受けてきたことを考えました。楽しいことを教えてくれた司祭もいました。ダジャレが好きだった司祭からは、『イエスの変容の時、それを見ていた弟子は「あら、変よ!」と言った。また。イエスがどうして十字架にかけられたのかが、どうも気にかかる。』と聞きました。
自分の人生はいつ終わるのかは分かりません。最後が一瞬なのか長く患うのかも分かりません。でもその時は確実に迫ってきています。目を覚まして、良い準備をして迎えることができるよう「今も死を迎える時もお祈りください」といつも祈っていたいと思います。昨日、8月6日は、主の変容の祝日でしたが、広島に原爆が投下された日でした。1945年8月6日午前8時15分に一瞬にして14万人が命を落とし、3日後の8月9日には長崎で、午前11時2分に7万4千人が一瞬のうちに亡くなりました。長崎では爆心地が浦上教会の近くだったので、多くの信者が一瞬のうちに神様の前に出ることになりました。
今日の福音に「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いである」ということばが2回でてきます。目を覚ましているとは、イエスの方をしっかり向いている状態のことです。お祈りやミサに出たとき、神様やイエスのことはそっちのけで、仕事のことや家事、楽しいこと、遊ぶことしか考えていないなら、それは「眠っている」ことになります。
昨日から始まったリオ・オリンピックの観戦ばかりに気を取られてないで、しっかり目を覚ましてイエスの方を向いて生活しましょう。この季節は戦争の犠牲者やお盆なので先祖や身内の死者を考える機会が多くなります。ですから、自分の死についても考えましょう。お迎えが来た時に灯火の油を用意していなかった愚かなおとめの話が福音書にあります。体脂肪の油では代用がききませんよ。先日、新聞に体重に関する川柳が載っていました。「やせ我慢してるというが痩せぬ妻」、「体重欄無差別級と書いた妻」。体はともかく、心の方はしっかり引き締め、目を覚まして主が来られるのを待ち望みましょう。