今日の福音はイエスがナインの町でやもめのひとり息子を生き返らせた話です。第1朗読の預言者エリアがサレプタの寡婦の息子を生き返らせた話に似ています。昨日、わたしはパソコンでナインの寡婦の箇所を検索して、ある教団が作ったナインの寡婦の動画を見つけました。イエスが、ナインという町の門に入ろうとしたとき、寡婦の一人息子が死んで運び出される重苦しい場面に出会われます。この寡婦は、自分の子どもが死んだことで、“希望の光”を失い、喪失感と悲しみに打ちひしがれ泣いていました。その動画の会話は、福音書に書かれているとおりでした。しかし、「死人が起き上がってものをいいはじめた」と書かれているところでは、この青年は『お母さん』と言いました。わたしはこの青年が何と言ったのか気にかかっていましたが、『お母さん』ならありえると思いました。イエスは、この婦人の悲しみをご自身の体と心で感じられ、憐れに思い、『泣くことはない』と言われます。イエスが奇跡を行うとき、たいていは信仰が前提になっていますが、ナインの町ではイエスが憐れに思って一人息子を生き返らせています。わたしは以前にこの箇所を読んだとき、この寡婦が日本のようにもし香典をもらっていたら・・・といらない心配をしたことがありました。
先週、金曜日、イエスのみ心の祝日に、先月28日から道南の七飯町の山林で行方不明になっていた、7歳の男の子が7日ぶりに鹿部町の自衛隊の演習場内で無事保護されたニュースがありました。たくさんの人がみんな良かったと喜びました。その子が行方不明になってからずっと祈っていた人は、発見されたニュースが入った時、いち早くわたしに「見つかってよかった。神に感謝です」と知らせてくれました。自分に子供がいる人は、とくに他人ごとのように思えなかったと思います。今回の事件で、多くの人たちがいろいろな意見を言っています。親を厳しく叱責するブログを書いた教育評論家がいて、そのブログが炎上しているようです。心配し、発見を一緒に喜んであげる人は、優しい人です。パウロは「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい」(ローマ12・15)と言い、教皇フランシスコはいつくしみの特別聖年の大勅書の中で、『教会のいのちを支える柱は、いつくしみです』と言っています。神さまはわたしたちが評論家になることよりは、悲しんでいる人、困難な状態にある人に、親身になって寄り添うこと、関心を向けることを望んでおられると思います。憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける(マタイ5.7)からです。渡辺和子シスターが次のような文章を書いています。「どんなに忙しい生活であっても他人の幸せを願うことはできるはずです。思いやることもできるはずです。というか、むしろ、自分の忙しさをこえ、自分の苦しみにもかかわらず他人を思いやり、慰め、その幸せを願うところにこそ愛があるのでしょう」。(愛と励ましの言葉366日・PHP研究所)
みなさん、どうか優しい心、慈しみの深い人になってください。優しいという漢字は、にんべんに憂いと書きます。イエスはいつくしみ深い人、優しい人でした。