三位一体の主日は「三位一体」の神学的な教えを考える日というよりは、父と子と聖霊の神の共同作業によって、わたしたちが救われるようになったことを考える日です。ある司祭は、父なる神がイエスを遣わし、子であるイエスは父への道を示し、この道を歩めるように、後ろから支え、後押ししてくださる方が聖霊とやさしく説明しています。
第二ヴァチカン公会議を召集した聖ヨハネ23世教皇は、亡くなる前に「教会が時のしるしを認識し、チャンスをつかみ、もっと遠くを見ることのできるヴィジョンを願いましょう」というメッセージを残されました。三位一体の神を考える祝日に、わたしたちはもっと遠くを眺め、いつもとちがう角度から信仰生活や人生を見直して行くことが大切だと思います。現実だけを見るなら、人生はばら色ではなく、うまくいかないこと、苦しいこと、思うようにいかない事が多く、みんな確実に齢をとって老けていっています。教会もこの社会もどこに向かっているのかと不安にもなります。しかし見方を変えるなら、わたしたち弱く有限なものが、無限な神の愛の中に招かれています。三位一体の神のいのちに招かれています。すごくありがたいことです。
最近、連日暑い日が続いています。先日、滝川の菜の花が満開なので見に行ってきました。山ではウグイスが鳴き、畑一面の黄色のじゅうたんがとてもきれいでした。帰りの車で、一人の方が「今日はいのちの洗濯をしてきた」と言ったので、わたしは運転しながら「もうお年だからとっくに干上がっているのに」と思ってしまいました。旅行などで、ちょっと日常から離れるならもっと楽しいこと嬉しいことが発見できます。
渡辺和子シスターは、「わたしたちはそれぞれが変えることの出来ないさまざまな条件のもとに生きている。神さまは一生の終わりにその人の条件を含めて判断してくださる。わたしたちは分数の分子の方だけを見て判断し、あの人は○○ができて、○○をしたと判断するが、神さまは、分母のほうも見て判断してくださる。」と言っています。
人間には死という条件があり、限られた有限性の中で生きなければならないこともひとつのめぐみです。制限があるから不自由なのではなく、制限とか期日があるからわたしたちは優先順位をつけて選択することができます。人生を出口の方から眺めるなら、もっと大事なことや多くのことが見えてきます。
以前札幌にいたとき、パソコンの調子が悪くなり、修理の人を頼みました。その方は、修理の合間に、パソコンで出来るいろいろ便利なことを教えてくれ、わたしはその説明を聞いて、すっかり嬉しくなりました。でもその後で、すぐどうだったか分からなくなり、わたしのパソコンはやはりあまり活用できていません。
わたしたちが三位一体のいのちに招かれていることは、詳しくは分からないけれどすごいことです。わたしたちは神の愛の交わりの中に入れてもらえるその日まで、わくわくして待ちましょう。わたしたちの人生は、最後には三位一体の無限な愛に包み込まれるように設定されているのです。