今日の福音は、イエスが最後の晩さんの席で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われた箇所です。そこでイエスはどのように愛を示されたかを考えてみました。いつもそばにいた弟子たちに対しては、彼らの信仰が無くならないように祈り、受難の予告のあとには、彼らがつまずかないように、変容したご自分の姿を見せ、人に奉仕することを教えるために、彼らの足を洗い、さらに復活なさってからは、復活が信じられなかったトマスのためにもう一度現れています。他の人々に対しては、罪人として人々から疎外されていた人たち、病人や寡婦など弱い立場にある人たちと積極的に関わり、「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である」と言いました。また、十字架を担ってゴルゴタに向かっていた時に、エルサレムの婦人たちの心配をし、十字架上では自分を殺そうとした人たちのために「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分が何をしているのか、わからないからです」と祈っています。
イエスが身をもって教えられた愛から、いろいろな切り口から話すことができます。最初に「ゆるすこと」について考えてみます。イエスはわたしたちが天の父から赦されているのだから、何度でもゆるすように教え、「七の七十倍ゆるさなければならない」と言われ、また自分を十字架につけた人たちのために祈りました。しかし、赦すことはわたしたちにとってかなり難しいことです。赦しは感情ではなく意志と決断の行為だからです。「赦し難きを赦す」ことは犠牲や血を流すような痛みが伴います。こんな話を読みました。ある人が主イエスに尋ねました。「イエスさま、あの男をぶん殴りたいのですが、よろしいでしょうか」。主イエスは答えました。「わたしは人をぶん殴るために、あなたに手を与えたのではありません」。そこでその人は「はい、わかりました」と言って足で蹴飛ばしたそうです。もう一つ、イエスの教えた愛は、ほんものの愛で、ギリシャ語のアガペーといわれる愛です。この愛の特徴は平等、無償、行動です。平等は、上からでも下からでもなく、愛している人と同じレベルになろうとします。無償は、見返りを求めないで、ただ他人を大切にし、他人に尽くすことです。親たちが子どもに与える愛を考えるとわかりやすいです。行動は、ほんとうに愛に生きる人は、他人の困難、悲しみなどに黙っていられないで手を差し伸べ行動します。
今年は「いつくしみの特別聖年」です。教皇は今の世界にもっと愛が必要だと考えてこの特別聖年を定められました。世界のいたるところで、多くの人々が苦しみ、倒れ、もがき苦しみ、助けを求めています。いま教会は、苦しみ悩む人たちにとっての「よいサマリア人」になっていかなければなりません。教会は自分たちの世界から抜け出し、もっと人々と関わり、神のいつくしみを示していかなければならないのです。イエスは群衆が飼い主のない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深くあわれまれました(マタイ9.36)。わたしたちもイエスのように深くあわれむ見方ができるようになりたいです。また深く愛するためには、聖霊の助けが必要なことも忘れないでください。