今日の福音は先週の続きでナザレの会堂での話です。ナザレの訪問はルカ福音書では、イエスの宣教活動の始めになっていますが、マタイとマルコの福音書は、ガリラヤでの宣教の終わりの時期になっています。聖書学者は、イエスは二回ナザレを訪問していて、ルカはそれを一つにまとめて書いたと説明しています。初めての訪問の時、人々は皆イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚きました。しかし、後の訪問では、「この人はヨセフの子ではないか」、「所詮は大工の子ではないか」と不信仰な態度を示し、イエスを歓迎しませんでした。

わたしは今日、懐かしい五条教会にミサにきています。昔の私を知っている人は、「山本神父は、タケノコ採りに夢中になっていた。いつもラーメンばかり食べていた」「あんな嫌なことを言われた」などいろいろ思い出すことがあるかもしれません。でも、どうか優しく受け入れてください。ここの教会にいた頃は50歳前後で元気いっぱいでした。わたしは、旭川を離れてすぐ52歳で脳梗塞になりました。今、わたしは病気が神からの大きなお恵みだったと思っています。身体が不自由になって初めて、司祭の一番大事なこと気づきました。司祭しかできないミサがまだできるのです。これは、感謝すべきことです。

今日の第二朗読はコリントの教会への手紙です。パウロはコリントの教会の人々がそれぞれ自分の受けた賜物を誇っていたとき、何よりも大切にされなければならないのは愛なのだと気づいて、愛について書きました。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない・・・」と続く箇所は愛の賛歌と呼ばれています。愛という言葉をわたしに置き換えると自分が愛を持っていないことがよくわかるといいます。愛はイエスの教えの中心に来る教えです。「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたもたがいに愛し合いなさい」「わたしの愛にとどまりなさい」「友のためにいのちを与えるほど大きな愛はない」「隣人を自分のように愛する」ためにはありのままの自分を受け入れて自分を愛することが必要です。

昔、もう50年も前ですが、わたしが初めて教会に行った頃、ドイツ人の神父さんが、「愛とは相手の本当の幸せを考えてあげることです」と教えてくれました。「生きがいについて」という本を書いた神谷美恵子さんは「愛するとは、互いにかけがいのないものとして相手をいとおしみ、相手の生命をその最も本来的な使命に向かって伸ばそうと願う心なのだ」と書いています。また、ある司祭は、愛は、平等、無償、行動の三つの特徴があると言っています。平等は上からでも下からでもなく愛している人と同じレベルになることです。無償は見返りを求めないことで、親たちが子どもに与える愛を考えると分かり易いです。行動はほんとうに愛に生きる人は、他人の困難、悲しみ等に黙っていられず手を差し伸べます。

今年は「神のいつくしみ」の特別聖年ですが、いつくしみと愛はほとんど同じだと思います。「おん父がいつくしみ深いように、わたしたちもいつくしみ深いものとなるよう招かれています」今年は、神のいつくしみ。神の愛について学ぶように努力しましょう。