対話のある祈り
-語りかける神と御子イエス-

「神は、……多くのかたちで、……また多くのしかたで……語られたが、…み子によって私たちに語られました」(ヘブ1:1-2)。「信仰とは聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによってはじまるのです」(ローマ10:17)。
神が語りかける方なら、人もそれに応える人格です。この対話は、心の通い合い、心に響く思い、“フト”と感じるものです。時と場所を選びません。一方通行のような話し方ではなく、聴きながら応えるとき、どこででも「対話」はできます。

対話というと、数学者の遠山啓師が書いておられたコラムを思い出します。
「ある高校で講演したことがある。帰ってから録音テープを聞いて驚いた。テープにはウグイスのさえずる高い声がはいっていたのである。その高校は小高い森の中にあってウグイスが鳴いていたとしても不思議ではなかったが、演壇に立っているときはまるで気がつかなかった。講演というものは聴衆が黙って聞くという約束のもとになされるので話し手は聴衆という他者を無視して自由にしゃべることができる。自分のなかに閉じこもって話を進めるのでウグイスの鳴き声に気づかなかったのであろう。だからそのとき私は対話のない思考を続けていたことになる」
(「日記から」遠山 啓:朝日新聞夕刊コラム欄所収から借用)。
対話は一方通行ではなく、相手の顔を見ながら、耳を傾けながらするものです。
母は幼児の目を見ながら、幼児も母の顔を見つめながら、幼児語で声を掛け合いま
す。それで、お祈りは、良く聴くことでもあります。心で聴きながら交わすためには、待っていることも必要です。「アッバ、父よ」と話しかけてみましょう。
対話をするために:
☆ 神がここにおられることを思いつつ、畏敬の念を起こします。
★ 私も、そこに存在するものです。心の散漫を避けましょう。
◎ 体でも祈ります。うやうやしい態度を体で表現します。
体が畏敬の念をかきたててくれるでしょう。
○ 内にこもることのないように(自己陶酔、自己憐憫ではなく)オープンな態度、美しいものを見るときのような、我を忘れるほどに。
聖書の個所:
マタイ 7:21~29 「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に、、」
Ⅰサムエル 3:1-14 「どうぞお話しください。僕は聞いております」
ル カ 12:22-34 「だから、言っておく。、、思い悩むな。、、考えてみなさい」
マタイ 12:46-50 「私の母とはだれか。弟子たちの方を指して言われた」
コロサイ 1:24-29