キリスト教においては、死というものが神のみもとに帰り、永遠のいのちにあずかるということですから、亡くなった人の魂が永遠に安らかに憩うように祈りをささげることをかねてから教えてきました。またわたしたちは生者同士の関係だけでなく、生者と死者との連帯関係にあります。故人が天国に入るためにはその霊魂があらゆる罪の汚れから清められ、神のみもとで永遠の幸福にあずかることができるように祈ることによって死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成しをしてくださることを信じるがゆえに、教会はキリスト教の初期時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。
教会の典礼暦で11月2日は「死者の日」とし、亡くなったすべてのキリスト者を記念します。キリスト者の間では2世紀頃から死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、次第にミサが伴うようになりました。諸聖人の祭日(11月1日)の翌日にすべての死者を記念する習慣は、998年にクリュニー修道院によって始められ、その修道院の修道士たちの影響によって11世紀には広く行なわれるようになりました。わたしたちは生者と死者を問わず万人との連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としています。「聖徒の交わり」とは、「聖なるものの分かち合い」と「聖なる人々の交わり」という意味を持ち、聖徒たちの交わりが、まさに教会なのです。すべての罪はこの交わりを損なうものです。教会はキリスト教の初期の時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることができるのです。今月は亡くなった人たち、特に関わりある人たちのことを考えて、お祈りをしてください。
先日、25日の土曜日、カトリック大会の前日にわたしは街の床屋さんに行きました。寒くなり間も無く雪になりそうなこんな時期に、なんとトンボを見つけました。このトンボはあと何日生きられるのだろうかと思いました。トンボは陽だまりに止まって暖まっていました。わたしはこのトンボがあと少しの命だと思い、「虫たちは元気でいても虫の息」という川柳を思い出しました。わたしたち生き物の命は、生まれた瞬間からその命をお返しする死が待っています。キリスト教ではキリストを信じる者にとって死が人生の終わりに思えたとしても、新たな人生の始まりであり、目的である天国への旅立ちであることを教えています。キリストは『わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる』と教えられました。永遠の神さまから見たらわたしたちはみんな虫の息なんです。でも命をお返しする時は、新しい命への旅立ちの時になります。子どもの頃、わたしは親から「孝はお金を持たすとすぐ使ってしまう脳天気で苦労知らずの極楽トンボだ」とよく言われていました。いま自分の残りの命はかなり短くなっていると思います。神さまに信頼して、お呼びが来るまでなすべきことをしっかり行って使命を果たしたいと思っています。向こうに行ったらやりたいことがたくさんあります。会いたい人や知りたいことがたくさんあります。でも新しい命をもらい損なうことがないようにしっかり生活していかなければと思っています。*(Ka)
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