わたしたちは何かの集まりでどこに座っても自由な場合、帰りにすぐ出られるように端の席を選んだりします。聖堂の中ではたいていの人はいつも、だいたい同じような場所に座っていると思います。その場所が落ち着くからなんでしょうね。わたしは何かの式典で席が指定されている時は仕方がないのですが、そうでなければ堅苦しくない楽しい場所に座っていたいです。むかし信者さんの結婚式で偉い人ばかりの席に座らせられて窮屈だったことを思い出しました。その時のお婿さんが博士号をもっている大学の研究者だったのです。披露宴の出席者はほとんど仲間の研究者や大学の教授たちでした。そしてお客さんの誰もが、「新郎は優秀な成績で大学を卒業し‥‥」と褒めていないことに気づきました。その時、本当に優秀な人の場合は、世間でよく使うお世辞は言わないのだと分かりました。
イエスはファリサイ派の議員の家の宴会に招かれていて、少しでも上席に座ろうとしていた人たちを見て、神の国では上も下も金持ちも貧乏人も差別がなくなると言いました。人を招く時はお返しのできない人を招けば天に宝を積むことになるのです。わたしは身体が不自由なためいつも人にお願いすることがあります。部屋の掃除や洗濯、お風呂に入れてもらうにも、それから片手しか使えないので、ファスナーが付いている衣服を着るときに、他にりんごの皮を剥いてもらうようなことやペットボトルの蓋を開けてもらう時にも人にお願いしています。それでいつも車椅子の背中のポケットに飴やお菓子など何か入れています。手伝ってくれる職員にはそれが仕事なんですが、「ありがとう」と言ってちょっとした物を渡すと喜んでもらえます。わたしはいつも本当に人のお世話になって生きています。鈴木秀子シスターの「人はいつか死ぬのだから」小さな「気づき」は人生の恵みという本の中に、『ほんとうの謙虚さとは、「そうだこのままの自分でいいんだ」と思う気持ちから生まれます。いまの自分を認め、自分らしさを愛するーーこれがほんとうの謙虚さです。わたしたちは、人生に何を求めているのでしょうか。それは幸せになることです。誰もが幸せになるために、この世に生まれてきたのです。あなたが幸せでいれば、まわりの人によいエネルギーを与えます。あなたが笑顔で、心に余裕があり、落ち着いて穏やかであれば、あなたのそばにいる人は誰もが心地よくなります。何も言わなくても、ただ一緒にいるだけで豊かな気持ちになります。』とこんなふうに書いています。わたしは年をとって身体が不自由になり、何もできなくても、それでも神さまに大切にされて愛されていると考えて幸せな気分になっています。
いまの世界には権力を持って偉そうに振る舞っている指導者がたくさんいます。でも神の国では、死に至るまでへりくだった(フィリピ2.8)イエスの生き方やイエスの心をもっていた人こそ偉大な人になるのです。*(5)
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