今週の福音は、先週の愚かな金持ちの続きのような話です。今日のたとえは「目を覚ましているしもべ」のはなしです。「家の主人がいつ帰ってくるかはわからない」とはその人の人生の終わりとも考えることができます。先日、8月6日は広島の原爆の記念日でした。80年前のその日、朝8時15分に原爆が投下され一瞬のうちに数万の人が爆風や熱風でなくなりました。記念式典を観ていて、こんな残酷な兵器はあってはならないと思いました。キリストは弟子たちに「人の子は思いがけない時に来るからである」と言われましたが、これは世の終わりか、自分の人生の終わりのことです。わたしは自分のことを考えました。わたしと同期の司祭の中にはもう数名亡くなった人がいます。同じ神学院で学んだ人たちの中にもすでに天に呼ばれた人も何人かいます。
お世話になった人たちもたくさん神さまに呼ばれていきました。自分も年齢に不足はないので、いつ呼ばれても不思議でないと感じています。
先週の月曜日(8月4日)は聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ司祭の記念日でした。この聖人は、全世界の小教区の司祭の保護の聖人です。2009年から2010年にかけて教皇ベネディクト16世は聖ヴィアンネ司祭の帰天150年をむかえるのにあたって、特別聖年「司祭年」を定めました。わたしはこの聖人が自分に厳しい生活をして、やさしい言葉の説教で人々を神に結びつけていったので尊敬している聖人です。聖ヴィアンネは救霊についての要理の中でこんな話しをしています。『自分の霊魂を守り、救霊を得ることに励む善良な信者はいつも幸福であり、満ち足りています。すでにこの世ながらに天国の幸福を味わっているのです。‥‥これに反し、みずから地獄に落ちる悪い信者は、いつも嘆いていなければなりません。不平を鳴らし、悲しみ、ごろごろしている石のように不幸です。
生活のための良い法則があります。それは神さまにお捧げできることだけするということです。ところが悪口や中傷や不正や、怒り、冒涜、などは神さまに捧げることができません。‥‥ところが、世俗では、こういうことだけしかないのです。皆さん、よくよく考えてみなければなりません。わたしどもは霊魂のたすかりを得て、わたしどもを待っている永遠をわがものにしなければならないのです。世俗、富、快楽、それから名誉などは束の間のものです。天国と地獄は決して過ぎ去ることがありません。だから用心しなければなりません。わたしどもの生涯の最初はよくありませんでした。しかし、立派な者となって、最後の時を迎えましょう。そうすれば、天国において聖人方と共に永遠の幸福を味わうことができるでしょう。』(モンナン神父・著、聖ヴィアンネの精神、聖母文庫より)
わたしはイエスがその人の宝のあるところに心もあると言われているので、自分は何を大切にしているかを考えてみました。健康や財産やこの世の楽しみは、みなこの世に残して、神さまのところに旅立たなければなりません。その時本当に良かったと思えるものが神さまの前で価値あるものだと思います。みなさん、自分の宝、そして大切にしているものが魂の救いにどれだけ役に立っているかを考えてみましょう。*(Ka)
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