ルカ福音書では、イエスがある村にお入りになったと書かれていますが、ヨハネ福音書によれば、この村はエルサレムに近いベタニヤでした。今月の7月29日に聖マルタと聖マリアと聖ラザロという三人のきょうだいの記念日があります。彼らはベタニアで主を温かくもてなし、マルタは心をこめて奉仕し、マリアは敬虔に主のことばに聞き入りました。そしてラザロが死んでから、イエスは二人の祈りにこたえて彼を生き返らせました(ヨハネ11.1〜42)。ベタニアのこのきょうだいの家はイエスが親しくしていたくつろげる場所だったみたいです。ラザロが亡くなった時、ラザロのお墓の前でイエスは涙を流されました。ユダヤ人たちは「なんとラザロを愛していたことだろうか」と驚きましたが、その後でイエスはラザロを生き返らせました。3年前の7月に今日の福音の日曜日に教皇フランシスコはこんなふうに話されました。

 『イエスを迎えたマルタは、客をもてなすためにすぐに忙しく働き始めました。一方で、マリアは主の足もとに座り、その言葉に聞き入っていました。そこで、マルタは師イエスに向かい、マリアに手伝うように言ってほしい、と頼みました。マルタの小言は一見もっともなことのように思われます。ところが、イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10,41-42)と答えられます。なぜ主はマルタの寛大な心遣いに感謝しながらも、マリアの態度こそ取るべきものと明言されたのでしょうか。マルタの「哲学」は、「義務こそ第一、楽しみは後」というもののように思われます。もてなすためには、言葉だけでなく、客が居心地良く感じられるように立ち働かなくてはなりません。実際、イエスはマルタの働きをよくご存じでした。しかし、イエスはマルタに従来とは異なる新しい優先順位を理解させようとしたのです。これに対し、マリアは何よりも優先すべきことを直感していました。「マリアは良い方を選んだ」、それはイエスの言葉に耳を傾けることでした。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(同10,39)と福音書は言います。何かをしながら立ったままで聞いていたのではなく、マリアがイエスの足元に座っていたことに注目しましょう。マリアは、イエスが他の客たちのように食事や宿を求めて来たのではなく、その言葉を通してご自分を与えるために来られたことを理解したのです。』

 地球温暖化のせいか最近は毎日、とても暑い日が続いています。明日は海の日で連休になっています。そして今日は参議院議員選挙の投票日です。

 忙しい毎日でも、立ち止まりイエスに耳を傾ける機会を見つけましょう。今日、観想のための自由時間を見つけることがますます難しくなっています。
最近は暑くて寝苦しい日が続いています。わたしは近ごろ朝起きてすぐ窓を開け、反対側の廊下側の戸を少し開けて風通しをよくして、それから7時半の食事までの時間を祈るために使っています。約1時間半は祈りの時間として使えます。お祈りを頼まれている人や病人のことをまず思い出します。そしてロザリオを唱えている間にたくさんのことに気づき教えてもらえます。

 夏の期間を、福音書を開き、毎日少しずつそれを味わう貴重な時としましょう。マルタとマリアのエピソードから、自分たちの生活を振り返ってみましょう。1日の始まりからすでになすべきあれこれに没頭しているのでしょうか。それともまず神のみ言葉から最初のインスピレーションを得ようとしているでしょうか。朝、イエスの言葉を頭に留めながら出かけるならば、一日はその言葉によって意味を帯び、その言葉は主が望まれるようにわたしたちの行動を導くでしょう。*(Ka)

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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇

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