7月1日は福者ペトロ岐部司祭と187殉教者の記念日でした。この殉教者たちは、江戸時代初期の1603年から1639年に日本各地で殉教した人々です。188人の内、司祭は4人、修道者が1人で他の138人は男女の信徒でした。その出身地は東北から鹿児島まで9つの教区に及んでいて、さまざまな社会的立場の人たちで、家族で殉教した人たちも含まれていました。この188人は2008年11月に長崎で列福されています。先日、大町教会でカトリック・ジャパン・ダイジェストの5月号をもらって帰りました。その記事の中に、2008年のこの列福式に、聖アウグスチノ修道会のトマス金鍔次兵衛(きんつばじひょうえ)司祭が含まれていたため、当時まだ司祭だった新教皇のプレボスト神父も参加していました。そして列福式のミサに出ていたレインコートを着た新教皇の写真も掲載されていました。またその翌日の金鍔次兵衛の列福感謝ミサの後でうどんを割り箸で食べているプレボスト神父の写真もありました。わたしは以前、この殉教者たちの中に、米沢の殉教者でわたしと同じ山本の姓を見つけて嬉しく思ったことがありました。それはアンデレ山本七右衛門(武士)、妻・マリア、娘・ウルスラ(3歳)、の三名でした。米沢の殉教者たちのことを調べたらとても胸を打たれる記述がありました。上杉家の城下町だった米沢では1629年1月12日に三ヶ所の刑場で男性30名、女性23名5歳以下の幼児9名が処刑されました。米沢藩は、誠実な家臣であったキリシタンを擁護していましたが、だんだん迫害が厳しくなり、藩の取りつぶしか、キリシタンの擁護かの選択を迫られて、やむなくキリシタンを処刑しました。そしてある刑場では奉行が見物人らに「ここで死ぬ者たちは信仰のためだけで殺されるいさぎよい人たちである。皆の者土下座するようお願い申す」と言った記録が残っていました。そして、殉教者たちの亡骸は「信者でない人たちによって丁寧に取り扱われた」との記録が残っていたそうです。

 わたしはレオ14世教皇が聖アウグスチノ修道会の会員だったので、トマス金鍔次兵衛のことを調べてみました。

 トマス次兵衛は1600年ごろ大村に生まれ、信者であった両親レオとクララは、後に殉教したと伝えられます。幼くして自発的に有馬のセミナリオに入り、卒業後イエズス会の同宿になったが、1614年、宣教師とともにマカオに追放されました。1620年、日本に戻り、その2年後マニラに渡って聖アウグスチノ会に入会しました。
1628年、セブ島で司祭に叙階されてフィリピンで活動を始めたが、迫害に苦しむ日本の教会に戻る望みをかなえようと、いろいろな方法を探りました。1631年、侍に変装して帰国に成功して、長崎奉行所の馬丁(ばてい)になり、クルス町の牢に囚われた宣教師や信者を訪れるなど、至る所に出没して使徒職を果たしました。隠密によって彼の人相書きが作られるに及んで、次兵衛は外海の山中に逃れました。彼は洗礼名は「トマス」で姓名ははっきりしなかったのです。「金鍔」という名は彼が長崎奉行所で役人に成りすましていた際にさしていた刀の金具である金鍔(きんつば)に由来するそうです。1636年に次兵衛は捕縛され拷問を受け、棄教を迫られたが彼は決して屈せずそれを拒み続けました。1637年8月21日より最初の逆さ吊りの刑を受けたが、その年の11月6日(旧暦9月20日)に長崎の西坂の丘で二度目の逆さ吊りの刑を受け殉教(死去)しています。わたしたちは北海道に住んでいるので、あまり殉教者たちのことを考えることがないですが、わたしの知り合いが長崎の大村にいるので、よく殉教祭や殉教者たちのことを教えてくれます。わたしはいま施設に入っているので手元に本などの資料がないのですか、スマホで検索するだけでいろんなことが分かります。米沢の殉教者のことも金鍔次兵衛のことも詳しく教えてもらえます。みなさんも教会のことカトリックのことを調べてみてください。今日の説教は福音と関係ない日本の殉教者たちのことを話して申し訳ありませんでした。*(O)

新教皇選出に当たって 聖アウグスチノ修道会 日本の責任者に聞く
(カトリックジャパンニュース:2025年5月19日記事から)

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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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