先週の日曜日は五月の最後の日曜日でした。わたしがミサに行った教会では、カトリック聖歌集から聖母月の聖歌を歌ってくれましたが、その日は気温が低くて4月のような気温で雨降りでした。♪青葉若葉の♪聖歌を聴きながら、わたしはこんな天気なら、(雨降りだから)天のきさきの聖歌の方がピッタリだと思いました。今日からは6月に入り、イエスのみ心の月になりました。聖母月は聖堂でみんなでロザリオを唱えたりしますが、み心の月には、何もしない教会が多いと思います。せめて6月中にはカトリック聖歌集からイエスのみ心の聖歌を選んで歌ってほしいなと思います。きれいな曲がたくさんあります。カトリック中央評議会で「イエスのみ心の月」について調べたら次のような説明がありました。イエスのみ心は全人類に対する神の愛の象徴としてイエスの心臓を表し、その信心はイエスのみ心に表される神の愛を思い起こし、その無限の愛のしるしであるみ心をたたえるものとして中世に始りました。そして、み心の信心は、教会において基礎となるものであり、キリスト教の中心といえるものでありますから、イエスのみ心の限りない愛に対して、できる限りの愛をもってこたえるというみ心の信心の目的をしっかりともちながら特にこの月を過ごしていきたいものです。と勧めています。みなさん、み心の月は、イエスの気持ちを考えましょうという月です。カトリック祈祷書などに、イエスのみ心に対する祈りなどがあれば、ぜひ心に留めてほしいと思います。
今日は主の昇天を記念する日です。主の昇天については、マルコ福音書で「主イエスは、弟子たちと話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(16・19、ルカ24・50-53と使徒1・9-11参照)とあるように、キリストが死んで3日目に復活し40日目に天に昇ったことを記念します。復活祭の40日後は木曜日になるので日本では日曜日に移して祝われています。キリストの昇天は、キリストが天に昇り、神の右の座に着いたということから人間として神の栄光の状態に上げられ、また御父のもとで最高の権威に参与されたことを意味します。わたしは今日の集会祈願に「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください。」ということばがあり、わたしたちの未来もキリストと同じように、天に上げられると考えると嬉しくなります。
6月号の「家庭の友」という雑誌にカルメル修道会の中川博道神父さんの、齢を重ねるという文章が載っていました。彼は大学生のころドイツ人宣教師の神父さんから「あなたは老後どう生きていくのですか?」尋ねられたそうです。「そんなことは考えたことがありません」と言ったら、「人は日一日、齢をとっていきます。最後まで皆から受け入れられる、豊かな人生を生きていくためには、譲るべきものは譲る。本質的なものを見抜いて大切にする、そんな訓練をしていかなければなりません。」と言われたそうです。そして、「自分が車椅子に座ったまま。1日中感謝できる者でありたいのです。」と言われたそうです。今わたしは、介護が必要なたくさんの人たちの中で暮らしています。どんな人も何か人の役に立つことができるはずですが、何もすることがなく、ほとんど一日中食堂に座っている人たちや、足が達者で一日中廊下を歩いて(ほとんど徘徊に見える)いる人もいます。天国に行ってこんな人たちばかりなら嫌だなと思ってしまいます。でも天国の聖人たちは地上の時と同じように忙しくしていると思います。わたしはいまできることをたくさん見つけて、死んでからボーッとしていたくないです。さらに忙しくなっても決してバテない体力と気力をもらえると思います。先々のことを考えると、主の昇天の日はわたしにはとても嬉しい日になります。*(O)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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