今日からの三日間は「聖なる過越の三日間」と呼ばれ、典礼暦年の頂点になります。これは「主の晩さんの夕べのミサ」から始まって復活主日の晩の祈りまでの全過程をさし、受難と十字架を通して、死から命へと移られたキリストの過越を祝う三日間です。
今夜の典礼は「主の晩さんのミサ」です。「主イエスは、引き渡される夜」(1コリント11.23)ご自身のからだと血による聖体のいけにえを制定されました。この使徒パウロのことばによって、わたしたちは聖体が生まれた劇的な背景を思い起こします。聖体には、主の受難と死という出来事が永久に刻み込まれています。聖体は、単にこれらの出来事を思い出させるにとどまらず、それらを秘跡によって再現します。聖体は、十字架のいけにえを世々に永続させるのです。わたしは教皇ヨハネ・パウロ二世の「教会にいのちを与える聖体」という回勅を思い出しました。その回勅の序文に、教会が聖体(エウカリスチア)に生かされたものであるということ。それは教会の神秘の核心にあることがらを要約しているのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる(マタイ28.20)。この約束がたえずさまざまなしかたで実現されていることを、教会は喜びのうちに経験します」。と書かれていました。そして第一章は聖体は信仰の神秘、第二章は教会を築く聖体について書かれていました。信者は洗礼によってキリストのからだとひとつにされますが、この一致は、聖体のいけにえにあずかることによって常に更新され、強められます。聖体拝領によってキリストはわたしたちの友となってくれます(ヨハネ15.14)。またわたしたちは、キリストによって生きることになります(ヨハネ6.57)。聖体拝領はキリストのからだである教会が一致するよう力づけます。わたしはもう一冊「司祭の役務と生活に関する指針」という本の中から、聖体について書かれている箇所を調べました。「聖体は、キリストの死と復活の秘跡的な記念であり、またあがないをもたらす唯一のいけにえを現実に効果的に再現するものであって、キリスト教生活と福音宣教の源泉であり頂点である」。と書かれていて、聖体祭儀は司祭の役務の根本的な要素であり、「キリストの行いを時間の中に現存させるものである」から大切にするように命じられていました。わたしは最近、精神科医として、ホスピス医としてキリスト者として二千五百名以上の患者さんを看取ってきた柏木哲夫さんの「いのちへのまなざし」という本を読みました。このお医者さんは「人は生きてきたように死んでいく」という文章の中で、ホスピスで多くの患者さんを看取ってきて、しっかり生きてきた人は、しっかりと亡くなります。ベタベタと生きていた人はベタベタと亡くなります。生き様が見事に死に様に反映します。良き死を死すためには、良き生を生きる必要があるようです。と書いていました。そして、人生には、集める人生と散らす人生(与える人生)の人がいることを書いていました。集める人生とは、お金、物、アイデア、知識などを集めることが中心になる人生です。散らす人生とは、お金、知識、経験、能力、時間などを周りの人々に散らす人生です。このお医者さんは自分の臨床経験から、散らす人生を生きてきた人の方が、平安な最期を迎えられるように思います、と言っています。散らすものの中で最も大切なものは時間だと思います。時間を自分のために使うか、人のために使うかによってその人の人生の色合いが決まります。自分のために時間を使う人は、集める人生を送り、他の人のために使う人は、散らす人生を送ることになります。イエスの人生はすべての時間を人のために使う人生でした。聖体の秘跡も、いつまでも自分を与え続ける秘跡でした。それで与え尽くして、イエスは安らかな死を迎えました。集めることより与える(散らす人生)ことを考える生き方のできる人には、安らかな最期が待っているような気がします。*(O)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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