今日は受難の主日ですが、以前は枝の主日と呼ばれていました。今日はミサの前にイエスのエルサレム入城を記念する枝の行列が行われました。司祭はミサの中ではイエス・キリストの代わりを勤め「これはわたしの体である」と宣言するのに、わたしは今日、ロバにではなく車椅子に乗って聖堂に入りました。なんかとても惨めで情けないと感じています。イエスのエルサレム入城は、決定的な受難の道に入ったことを意味し、この時からイエスの歩みは一直線に十字架に向かいます。この典礼から教会の典礼の頂点である「聖週間」に入ります。司祭は枝を持った会衆を祝福し、入城の福音(今年はルカの福音)が朗読され、行列(あるいは入堂)が始まります。今日の第一朗読は、有名な「主のしもべ」の第3の歌です。第二朗読では、「キリストの賛歌」であるフィリッピの教会への手紙2章6〜11節が読まれます。今日の福音はルカ福音書からのキリストの受難の朗読です。ルカ福音書には、他の福音書のキリストの受難の話には書かれていない話が入っているところが何箇所かあります。一つ目は、自分のために泣いているエルサレムの婦人たちを慰める箇所です(28-31節)。2つ目は、自分を十字架につけた人たちのために『父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです』(34節)と祈るところです。3つ目は、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人に『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と約束するところです(40-43節)。そしてルカ福音書が伝えるイエスの最後のことばは、46節の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」です。このことばはマルコ福音書の受難の話では、苦しんで無力のうちに息を引き取る姿で描かれているのとは違い、最後の最後まで人々を愛し続け、神に信頼し続けたイエスの姿を伝えています。イエスは天の御父に対する安らぎの気持ちをもって息を引き取られたことが分かります。ルカ福音書が伝える受難のイエスの姿には、つねに周りの人たちのことを心にかけ、彼らのために祈り、御父に対する信頼と安らぎの心をもっていたことが分かります。

 わたしはイエスがエルサレムの婦人たちに声をかけた時に『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうかと言われた箇所で、生の木とは、神と繋がっているイエスのことで、枯れた木は死んだも同然の罪人である普通の人間を指していますが(31節)。わたしは以前からこの箇所で、自分は、枯れた木だけでなく、いつも自分のことしか考えていない相当イカれた木だと思っていました。余計なことですが、最近、「アメリカを偉大な国にする」と言って、世界中の国に高い関税をかけて威張っているアメリカのトランプ大統領は、自分たちの国ばかりで、よその国のことを考えられない相当イカれた大統領に思えて仕方がないです。*(O)

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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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