先週の福音は放蕩息子の話で、神は罪人の回心を待ち望んでおられるという話でした。今日のミサの朗読箇所は、第一朗読のイザヤの預言も、第二朗読のパウロの手紙も福音も同じテーマで統一されています。それは昔のことを思いめぐらすのではなく、これからのことを考えなさいということです。イザヤは「昔のことを思いめぐらすな、神が新しい救いのわざを行ってくださる」と告げ、律法学者だったパウロは、律法は役にたつものだが、イエスへの信仰に比べるととるに足りないものだった。『わたしは昔のものを塵あくたと見なしている。なすべきことはただ一つ、後ろのものは忘れ、前のものに全身を向けつつ目標を目指してひたすら走ることです』と述べています(フィリピ3.14)。福音の中でイエスは、罪を犯した女性に対して、彼女を裁くことなく『行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない』(ヨハネ8.11)と言います。イエスが婦人を罰しなかったのは、死ではなくいのちを望んでいたからです。聖書と典礼の今日の福音の解説に、[ヨハネ福音書に後から挿入されたと考えられるこの箇所は「わたしはだれも裁かない」(8.15)というイエスの言葉につながっていく]と解説が書かれており、聖書学者たちは、本来はルカ福音書にあったこの箇所が、このような話しが福音書にあると初代教会の秩序が乱れると思われて、早い時期に福音書から消されてしまい、それが遅くなってから書かれたヨハネ福音書のこの箇所に入れられたと見なしています。
朝早くから神殿の境内で教えておられたイエスの元に律法学者やファリサイ派の人たちは、イエスの言葉尻を捉えようとして、このような女性を連れてきます。一緒にいた男は逃げてしまっていました。イエスが律法通りに石殺しにするように言えば、愛の教えに反する。殺してはならないというなら神の掟をないがしろにしている。とどちらにしても、イエスを困らせようとしていたのですが、これに対してイエスは『あなたがたのうちで罪のない人から石を投げなさい』と言います。敵対する立場の人たちにも考えさせているのです。これで年長者から始まってだれもいなくなります。イエスはこの女性の罪を赦し再び歩みはじめるよう送り出されます。最後の「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」という言葉はなんと優しい言葉でしょうか。日本の社会ではマスコミが芸能人や政治家のスキャンダルをあばく時、自分たちの中に弱い人は誰もいないかのように偉そうに振る舞っているのを、わたしは嫌だなと思うことがあります。報道関係や週刊誌の皆さん、あなたがたはみんなそんなに立派ですか?と聞きたくなります。イエスは裁くためではなく救うためにこの世に来られました(ヨハネ3.17)。神は人の死ではなく、いのちを望んでいます。イエスの敵対者たちは、イエスの言葉を聞いて反省ではなく、さらに敵対の気持ちを深めたと思います。わたしたちは、自分がそんなに立派でもないし、潔癖でもないことを考えてもっと謙遜になりましょう。少し優しい見方ができるようになればイエスの思いや考え方が、もう少し理解できるようになって、平和な心が持てるようになるかもしれません。*(5)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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