ルカ福音書の15章には、神のいつくしみに関する三つのたとえ話があります。「見失った羊」(4-7節)、「無くした銀貨」(8-10節)、そして「放蕩息子」のたとえです。今日は家に帰ってからルカ福音書の15章を開いてこの三つの話を読んで欲しいと思います。四旬節は悔い改めの時期です。今日の福音の放蕩息子のように、自分は本当に愚かで身勝手な者でしたと認めて、神様の前に謙りましょう。わたしは何も悪いことをしていない、悪いのは弟のほうだったと考えた兄のようであったら、まずいのです。兄は、弟が図々しく身勝手でわがままだったのに、父親が甘かった。と父親を批判して自分は正しいと考えました。これはどこかの国の大統領みたいです。彼は自分がいつも正しくて、飛行機事故や国民の経済的不満もみんな前の大統領が悪かったのだと言います。そしてたくさんの弱い人たちを国外に追放して、戦争で苦しんでいる国を援助していても、自分の国に見返りがないからと非情に見捨てます。自分が正しいと考える人は、神の心を理解できなくなります。放蕩息子の弟は我慢できなくて、わがままで弱い人間でした。わたしたちも自分はダメ人間です。でも父である神は見失った者を喜んで迎え入れてくれるお方です。ですから恥ずかしがることなく、大きな顔をして神様のもとに帰りましょう。いまはめぐみの時です。司祭はこの時期、教会からの帰りのタクシーを少し遅くして、多くの放蕩息子と放蕩むすめが戻ってくるのを待っています。少し耳の遠くなった司祭や、すぐ物忘れする高齢の司祭は、狙い目ですよ。この際、このような司祭は神のめぐみと考えてゆるしの秘跡を受けましょう。

 教皇フランシスコは9年前の四旬節第4主日に、今日の福音の兄と弟の他に、もう一人の息子のことを話されました。三番目の息子は「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になった」(フィリッピ2.6-7)方でした。しもべであるこの息子こそ、イエスです。イエスは、御父の広げられた両腕と心です。イエスは放蕩息子を迎え入れ、その汚れた足を洗い、ゆるしの祝宴を準備しました。そして「御父のようにいつくしみ深くなること」をわたしたちに教えてくださいます。と話されました。父親の姿は神のみ心をあらわしています。この父親はいつくしみ深い父親であり、イエスのうちに、わたしたちを計り知れなく愛し、過ちを犯すたびにわたしたちが回心するのを待ってくださいます。ゆるしの秘跡によって、わたしたちはいつでも新たに始めることができます。神はいつでもわたしたちを迎え入れて「行きなさい。平和のうちに、起き上がって、前に進みなさい」と声をかけてくださいます。復活祭を先に控えた四旬節にあたり、わたしたちは回心に向けた心の歩みを確かなものにするように招かれています。愛に満ちた御父の眼差しがわたしたちにそそがれるために、御父の腕の中に飛び込みましょう。*(O)

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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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