今日は年間第4主日にあたりますが、12月25日の主の降誕から今日が40日目になるので2月2日は主の奉献の祝日になります。幼子イエスがエルサレムの神殿で神に奉献されたことを記念する日です。ユダヤ教の律法によると、初めて生まれた子どもは、必ず生後40日目に神様に捧げるために神殿を訪問することになっていました。神に主が捧げられたことを記念してエルサレム教会では5世紀から、またローマの教会では7世紀からこの日を祝っていたと記録されています。ところが東方教会(コンスタンチノープル)と西方教会(ローマ)が分かれて(11世紀)以降、西方教会ではこの日を「聖マリアの清めの祝日」と改めていました。しかし、1960年になって典礼の刷新が起こり、東方教会でずっと行われていた奉献記念日を「聖マリアの清めの祝日」から元の「主の奉献の祝日」に変更しました。ルカ福音書に「両親は、幼子のために律法の規定通りに」(2.27)と記述されているように、イエスの両親がどれほど律法に忠実であったかを知ることができます。今日は2月2日でルカ福音書には羊飼いたちが幼子イエスを訪問した後のイエスの奉献の記述が2章22節から始まっています。2月2日の「主の奉献の祝日」とルカ2章22節からの2の一致は偶然の一致ですが面白いですね。わたしは昭和22年生まれですが、知り合いに、誕生日がその年の2月22日の人がいます。この日は2.2.2で猫の日ですが、わたしは毎年おめでとうの電話をしています。イエスの幼年時代の記述があるマタイ福音書では聖家族は東方の博士たちの訪問の後で、ヘロデ王を恐れてエジプトに避難したことになっているので(マタイ2.14〜)エルサレムの神殿に奉献したことは書かれていません。幼子イエスの奉献はマリアとヨセフが初子を奉献しただけでなく、もっと大きな意味があります。「神はその独り子をわたしたちにお与えになったのです」(ヨハネ3.16参照)イエス・キリストの奉献は、神が愛する人間のために、その最愛の独り子を捧げたということであります。神は独り子イエス・キリストをわたしたち皆のためにお捧げになりました。わたしたち一人ひとりにご自分のいちばん大切なものを捧げてくださったのです。わたしたちも自分の大切なものを神のために喜んで捧げているでしょうか?日々の務めや愛のわざ、また生活の中の少しの犠牲など神にお捧げするものはたくさんあります。神がわたしたちのためにその独り子をお捧げになったことを考えて、できることをお捧げしましょう。エルサレムの神殿で、聖霊から救い主に会えるまで死なないとしめしを受けていたシメオンと高齢の女預言者アンナにとっては、幼子イエスに会えたことはこの上ない喜びになりました。これでわたしはいつ死んでも本望ですというニュアンスのシメオンの讃歌は、教会の祈りの寝る前の祈りに使われています。何か嬉しいことがあったら「これでもういつ死んでもいい」と言う人がいますが、でもその人の本心は「今はまだ死にたくない」ですよ。神殿でマリアとヨセフは、シメオンの言葉に喜びとともに不安を感じ、暗い気持ちに襲われたと思います。わたしたちは、嬉しいことだけではなく、辛いことも神さまにお捧げすることができます。*(Ka)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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