今日から教会典礼暦の一年が始まりました。待降節はラテン語ではAdventus(アドヴェントゥス)と言い、これは到来を意味しています。待降節には主日が4回あります。前半の二回は週末におけるキリストの到来が、後半の二回は主の降誕における到来がテーマになっています。第一の到来と世の終わりの第二の到来には、幾つもの共通点があります。どちらもキリストが来られること、どちらも神の国をもたらすために来られること。初めの到来は神の国をもたらし、第二の到来は神の国の完成をもたらします。今日の福音の最後の言葉は「いつも目を覚まして祈りなさい」です。最近は日が短くなり、わたしが朝6時にカーテンを開けてもまだ外は暗いです。また気温が下がってきているので、グズグズしていてすぐに布団から出たくないです。この季節はしっかり目を覚ましてキリストの訪れを待ちたいものです。

 わたしは昔、神学生の頃に教会学校の子どもたちのために、トルストイの民話から、靴屋のマルチンの劇を作ってあげたことがありました。ロシアの文豪トルストイは、晩年になって、キリスト教を土台とした民話の形式の作品に力を注ぎました。そして「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたことである(マタイ25.40)という聖書の言葉がモチーフになっている『愛のあるところに神あり』という作品を残しました。ロシアのある町にマルチィンという靴屋さんがいました。奥さんとひとり息子を亡くしてからは、教会にも行かない生活をしていました。ある時、巡礼に行っていた友だちが来て、彼にキリストに出会うために聖書を読むことを勧めていきました。その後、彼は毎晩聖書を読むようになりました。ある夜、彼が聖書を読んでいたら、とつぜん、「マルチィン!明日往来を見ていなさい。わたしが行くから」という声を聞きます。次の日は朝早くから往来を気にしていました。すると隣の商人に雇われている疲れた老人を見つけ、店に入れて休ませてやりました。次に子どもを抱いたみすぼらしい女性を見つけ、店に招き入れ温かいシチューとパンを食べさせました。また今度はりんご売りの老婆からりんごをぬすもうとして老婆に捕まった子どもを見つけ、おたがいに許しあわなければならないと仲直りさせました。その晩、彼は「これはわたしだったよ」という声と、疲れた老人と、子どもを抱いたみすぼらしい女性と、りんご売りの老婆とりんごをぬすもうとした少年の姿を見ました。待降節はキリストに出会う準備をする期間です。『いつも目を覚まして祈りなさい』と言われていることを考えましょう。わたしたちは普段『人目』を気にしているのに『人の子の目』神の前に立つことを忘れて生活していると思います。つい先日わたしは92歳の聖心会の鈴木秀子シスターの体験した戦時中の話しを読みました。「彼女が9歳の時から太平洋戦争が始まり、終戦直前の時、学校からの帰り道を歩いていたら、突如としてけたたましい音と共にアメリカの飛行機が、操縦している人が金髪だと確認できるほど近くまで降りてきて機銃掃射したのです。わたしの少し前を歩いていた友だちが命を落としました。その時の光景が今でもトラウマになっていて、テレビで戦争を報じる番組が始まると反射的に消してしまいます。」と語っていました。自分がいつ人の子の前に出るのかは、誰もわかりません。よく祈り、キリストと出会うために、環境を整えておきたいものです。*(O)


なにがあっても、まぁいいか
樋口 恵子 (著), 鈴木 秀子 (著)(ビジネス社)

 

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