今日の福音箇所は、マルコ7章の「耳が聞こえず、舌の回らない人の癒し」です。マルコ福音書にはイエスが話していたアラム語がそのまま残されているいくつかの記事があります。今日の朗読箇所では「エッファタ=開け」ということばが用いられ、マルコ5章の少女の癒しでは「タリタ・クム=少女よ起きなさい」という言葉が用いられています(マルコ5.41)。イエスは呼吸の停止した少女に向かって「タリタ・クム」と言われて癒されます。その場所には、三人の弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが居合わせました。「タリタ・クム」というイエスから発せられた言葉の肉声が弟子たちの心に深く刻まれ、いつまでも忘れることができなかったのです。そしてその一人のペトロが、出来事をアラム語とともにマルコに伝え、マルコも感銘を受けて、アラム語の発音をそのまま表記して、自分の福音書に書きこんでいったと思われます。今日の福音箇所「エッファタ=開け」という言葉も同様でしょう。イエスの肉声がここに記録されており、出来事の真実性が伝わってきます。

 イエスは耳が聞こえず舌の回らない人と出会うと、「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触られた」とマルコは記します(7.33)。この人と一対一で向き合われたのです。そして病んでいる患部、耳と舌に触れられました。それから「天を仰いで深く息をつかれた」(7.34)。「天を仰ぐ」は神の力を与えてくれるように乞い願う動作です。「深く息をつき」は、ギリシャ語「ステナゾー」で本来の意味は「うめく、悶える」です。イエスは人間自身の力では変えることのできない嘆きや苦しみを負うこの人の前に悶え、うめき、そのうめきの中から、「エッファタ」という言葉をはかれています。すると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」とマルコは記します(7.35)。イエスの祈りに応えて、イエスを通して神の力が働き、癒しの出来事が起こりました。

 わたしは今年の6月と、また9月に入ってからも先日、耳鼻科に罹りました。聞こえが悪くなり、部屋のテレビの音量を上げて聴かなければわからなくなったからです。するとお医者さんは、「単に耳垢が溜まっただけ」と言って、耳に器具を当てガサゴソやって、よく聞こえるようにしてくれました。わたしは、イエス様なら「エッファタ」と言って治してくれると思いました。しかし9月に入ってから、また聞こえが悪くなり、病院に行ってきました。年を取ると耳が遠くなり、トイレが近くなってくるのは悲しいことだと思います。

 そしてわたしは何よりも、自分の心の耳が塞いでしまわないようにいつも、神さまの声を聴く努力をしていなければと思いました。
今日9月8日は、マリア様の誕生日です。しかし日曜日に当たったので、年間主日の典礼が行われています。マリア様は、エリザベト訪問のときも(ルカ1.39-56)、カナの結婚式の時も(ヨハネ2.1-11)、いつも人のことを考え、気遣いのできる人でした。困っている人はいないか?問題や心配に押しつぶされそうな人はいないか。そして祈る人でした。何をしたら人が喜ぶかをいつも考える人でした。わたしたちも、いつでも自分の周りの人のことを考える暖かい心を身につけていきたいですね*(5)

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