日曜日の福音が今週からまた、マルコ福音書に戻りました。今日の福音は、イエスがファリサイ派の人々の「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」その偽善を指摘するエピソードが取り上げられています。イエスに反感を持つ人たちは、イエスの弟子たちのなかに、昔の人の言い伝えに従わない者がいると非難しました。これはイエスの師としての信頼性と権威を壊そうとしたのです。これに対してイエスは「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ…『この民は口ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』(マルコ7.6-7)と答えられます。当時のファリサイ派の人たちは細かい掟をたくさん作り、人々を縛り付けていました。今日の福音では省略されていますが、コンバンといえば、父母を敬わなくてもいいような勝手なことを教えていたのです。イエスが厳しい態度をとったのは、そこに、神と人との関係に横たわる真理の問題、また真の信仰生活のあり方がかかっていたからです。3年前の年間第22主日の日曜正午の祈りの集いの時、教皇フランシスコは、「今日も主は、わたしたちが内容よりも形式に重要性を置く危険に陥らないようにと招いておられる」と話され、信仰体験の真の中心である神への愛と、隣人への愛は、律法主義、形式主義の偽善から信仰を守ってくれると語られました。日曜日のミサで聞く神のみ言葉をうわべだけでぼんやり聞かないでください。第2朗読の使徒ヤコブの手紙には、み言葉を行う人になりなさい‥聞くだけで終わる者になってはいけません(ヤコブ1.22)。ということばがあります。イエスが使徒たちをご自分のそばに置かれたのは(マルコ3.14)なによりもご自分の祈りの模範を教えるためでした。キリストの日々の活動の源泉は祈りの生活でした。深い祈りの生活があったからこそ、本当に大事なことを見抜くことができたのです。
まもなく大相撲の秋場所が始まります。わたしはいつも、力士たちが土俵に塩を撒くのがもったいないと思っています。きよめのために撒くのなら、一度でもいいのに、仕切り時間内に何度も撒いて、中にはどっさり塩を撒く力士もいます。塩をたくさん撒くと勝てるわけでもないので、塩まきは一回にして時間と資源を大切にしたらいいと思います。イエスの頃のファリサイ派の人たちは浄めのための手洗いなどの細かな規則をたくさん作っていたのです。
わたしはみなさんが、イエスのように本当に深く祈る人になってほしいと願っています。そうすれば何が大切で、神さまの望むことが何かが分かってくると思います。わたしは教会に出入りする人がみな、やさしくて愛の感じられる人で、なによりも深く祈って考える人であってほしいと望んでいます。*(O)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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