先週の日曜日のミサが終わってから、このつぎの日曜日までの間に聖母被昇天のミサがあるから、もう一度タクシーを予約しておかなければと思っていました。しかし、8月12日の月曜日に、長い間病気と戦っていた59歳の方が亡くなりました。わたしはこの方のためにずっと祈っていました。そして、最後は聖ヨセフさまが良い終わりを準備してくださいますようにとお願いしていました。この方から最後にメールをもらったのは、7月1日で、それ以後はスマホを手にすることができなかったみたいです。わたしはこの方から昨年7月に、遺言書に書いたので、自分の葬式の時に司式をしてくださいと頼まれていました。そして、8月15日の聖母被昇天の日に葬儀ミサをしてきました。自分が歳をとってくると、知り合いや親しかった人など、先に神さまのところに呼ばれる人がだんだん多くなっていきます。これはどうあがいても逃れることができません。最近読んだ鈴木秀子シスターの本に「そもそも人間の命というものは神様から与えられたものです。神さまがよしとされた時に、その魂をお迎えになるのです」死は人間にはどうすることもできない厳然としたものです。しかしそれは、使命を充分果たして神様のもとへ帰るということであり、決して嘆き悲しむために訪れるものではないのです。という言葉がありました。

 聖母被昇天の祝日は、聖母がこの地上での生涯の日数が終わった後、神のお恵みによって霊肉ともに天の栄光に引き上げられたことを祝う日でした。

 わたしたちはイエスの「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」という言葉に希望をかけています。人はみな神様から与えられた使命を果たして、神さまに呼ばれます。その時の別れの悲しさや辛さは、どうしようもないことですが、その悲しさや辛さがその人を成長させてくれます。

 今日の福音に「わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ6.57)という言葉があります。聖体拝領がもたらすのは、この上ないしかたでキリストと弟子が互いに「つながる」ことです。聖体拝領は、キリストのからだである教会が一致するよう力づけます。聖パウロは、聖体の会食にあずかることによって得られる一致をもたらす力について、「わたしたちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(1コリント10.16-17)。

 このパンを食べるものは永遠に生きるというのは、普通の食べ物とちがい、わたしたちがキリストに取り込まれていくからです。

 教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅「教会にいのちを与える聖体」の最後の6章は聖母マリアと聖体について書かれています。聖母被昇天があったので、今日は聖母マリアと聖体についても話します。主の昇天の後、聖霊の降臨を求めて集まっていた最初の共同体の中にマリアはおられました。最初の世代の教会が感謝の祭儀を行っていた時も、マリアは疑いなくそこにおられたに違いありません。聖体は信仰の神秘であり、わたしたちの理解をはるかに超えています。したがってわたしたちは神のことばに完全に身をゆだねるほかはありません。そうすればマリアほど、わたしたちがこうした態度を身につけるために支えとなり、導きとなってくださる方はいません。マリアは、ためらうことなくキリストに従うように「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」(ヨハネ2.5)と言っています。マリアが天使にこたえて「お言葉通り、この身に成りますように」ということばと、すべての信者が主のからだを拝領するときに唱える「アーメン」ということばのあいだには、深い類似があるのです。マリアは、教会とともに、また教会の母として、わたしたちが感謝の祭儀を行うときに、いつもそこにいてくださいます。教会と聖体とが分かちがたく結びついているようにマリアと聖体も同じように結びついています。だからいつでも感謝の祭儀において、常にマリアが記念されるのです。*(O)

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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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