今日の福音は、イエスが使徒たちを初めて宣教に派遣した話です。イエスは使徒たちを二人ずつ組にしてその旅行での注意事項を伝えて送り出しました。二人ずつ組にしたのは、ユダヤの慣習に従うものでした。ユダヤの裁判では二人以上の証言であれば真実であるとみなされたからです。イエスはガリラヤ湖の辺りや旅の途上で弟子たちを召され、その中から十二人を選びました。この十二人は明らかにイスラエル十二部族を象徴しています。わたしは今週の「聖書と典礼」の表紙の絵がキリストと十二使徒の絵だったので、どの使徒と誰が組になっていたかを知りたかったのです。でも絵が小さくてはっきりわかりませんでした。普通聖人たちの絵を描くときには、聖ペトロなら鍵というようにその人物が分かる持ち物も書かれているのに今日の絵には描かれてなかったのです。また二人ずつ組にされたのは、一人では孤独に陥り、行き詰まる可能性もあるので、困難を助け合うために二人が必要とされたのでしょう。教会の業は一人ではなく共同体の業であることが示唆されています。そしてイエスは「旅には杖一本の他は何も持たず、パンも袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は2枚着てはならない」と言い、必要なものは神が与えてくださるので、神の配慮に信頼して出かけなさい。と勧めているのです。またどこかの家にお世話になったら、旅立つ時まで、その家にお世話になること、また受け入れてくれない人たちがいたら、あとは神さまに委ねなさい。弟子たちには宣教の責任がありますが、その結果は神に委ねなさい。と言っています。イエスは持ち物については身軽に、そして結果は神に委ねなさい。と言っています。普通誰かに使命を与えて派遣する場合には、何を持っていくと便利かと教えると思います。イエスはいろいろなものに頼らなくても、神がなんとかしてくれるという信頼の心を持つことを教えています。

 わたしたちは、みんな神さまのことを伝える努めがあります。立派なお話しによってではなく、その人の日常の行ないが示す証が大切だと思います。優しいひと言や親切な心遣いなどです。日曜日のミサが終わるとみなさんは自分の生活の場に派遣されます。

 昔、わたしはある方に「あなたはどうして教会に来るようになったのですか?」と聞いたことがあります。その方は、自分の知っている方がここの教会に出入りしていることを知って、自分もあのような人になりたいと思って教会に来ました。と教えてくれました。立派なお話しや特別なことがなくても、普段の立ち振る舞いが宣教になっている人がいます。反対にあの人が教会に行っているなら、自分は絶対に行かないと思われる人は残念な人です。

 わたしは説教を考えていた時「わたしをお使いください」というマザーテレサの祈りの歌を思い出しました。

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 主よ、今日一日、
貧しい人や病んでいる人を助けるために、
私の手をお望みでしたら、
今日、私のこの手をお使い下さい。

 主よ、今日一日、
友を欲しがる人々を訪れるために、
私の足をお望みでしたら、
今日、私のこの足をお貸しいたします。

 主よ、今日一日、
優しい言葉に飢えている人々と語り合うため、
私の声をお望みでしたら、
今日、私のこの声をお使い下さい。

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 みなさんどうかみなさんの手や足、そして声と心をお貸しください。*(Ka)

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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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