今日は四旬節第4主日になりました。今日の入祭唱は。神の民よ、喜べ、という言葉で始まっていて、一年に二回だけのバラ色の祭服を使うことのできる日です。もう一回は、待降節の第3主日です。今日の福音はヨハネ3章16節の有名な言葉が読まれました。ルターはこの箇所を「聖書の縮図。また、小さき福音書である」と言ったそうです。新島襄は「これは新約聖書の富士の山、富士山である」言ったそうです。

わたしが聖書の箇所で、ヨハネ3の16だけで思い出せる数少ない言葉です。

「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」わたしはこの聖句で、以前読んだことのある浅野順一という牧師さんの文章を思い出しました。『もう子供が天に召されてから、かれこれ一月近くになる。‥なにかの拍子にふと思い出すことは日に一度や二度ではない。‥子を持って知る親の恩という言葉があるが、子を失ってみると神の愛が解るものである。子どもの召天した日の通夜の夜にヨハネ伝の第一章から精読してみた。そして3章の16節「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のところに至って泣けて仕方がなかった。神がその独り子をこの世に送り給うとはどんなに大きな犠牲であったのであろうか。このような犠牲なしに神に背くこの世は救われないのである‥』と書かれていました。わたしはこの文章を読んで、自分の子どもを失った悲しみや嘆きではなく、神さまがその独り子を与えてくださったことに気がついたことが素晴らしいと思いました。本当の祈りは、自分の願いだけでなく、神さまと心を触れ合わせることだと思います。この牧師さんは毎日聖書を読み、神さまの心に触れる祈りをしていたから、自分の悲しみの中でも、この世は神さまの大きな犠牲によって救われたことに気づくことができました。わたしたちが、お願いばかりしている祈りを「請求書の祈り」ということを聞いたことがあります。ありがとうございますの「領収書の祈り」もたくさんしたいです。

わたしは数年前に持っていた荷物をほとんど処分して、いまはダンボール箱ひとつに入る本だけ手元に置いています。その中に渡辺和子シスターの推薦の言葉が載っている、岡山県の牧師の河野進さんの「ぞうきん」という詩集があります。その本の中には「天のお父さま どんな不幸を吸っても はく息は感謝でありますように すべては恵みの呼吸ですから」という詩があり、この詩は渡辺シスターが不幸をいっぱい感じて落ち込んでいた時、不幸に思えることも”恵み”以外の何者でもないという信頼。また人間には、吸い込んだ不幸を、感謝に変える力が与えられていることを教える励ましの詩になりました。と書いていました。最後にもうひとつ紹介します。

「主イエスさま、今日もおめぐみください。ごうまんな一言より 謙虚な一言を 悲しみの一言より 喜びの一言を 傷つく一言より いやしの一言を 痛みの一言より 慰めの一言を さばく一言より ゆるしの一言を 絶望の一言より 希望の一言を 氷山の一言より 聖書の一言を」 (河野進・ぞうきん・幻冬舎

毎日こんな気持ちで過ごせたらいいなと思いました。*(Ka)

 


河野進・ぞうきん・幻冬舎

 

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