先週の福音はフィリッポ・カイサリアでのペトロの信仰告白の箇所でした。今日はそれに続く箇所です。イエスがご自分の受難と死と復活について教え始められた時、ペトロがイエスをわきへお連れして「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と諫めたのです。ペトロや弟子たちの考えでは、メシアが殺されるなんてありえないことに思えたのです。これに対してイエスは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱りつけます。「神のこと」とは「神の救いの事柄」です。イエスは、神が人に与えようとしている救いのことを第一に考えていたのです。イエスは神が人を救うために、ご自分が多くの苦しみを受け、その先にある復活を信じて、殺される道を歩まれるのです。そして弟子たちには「自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言います。この説教を考え始めていた時、知り合いの方からこんな相談をもらいました。「私の親しくしているブラザーが修道院長様と意見が対立し修道院を出てしまいました。彼は色々な福祉の分野で活動していました。まだ退会はしていないようです。ごミサには近くの教会に行っているようです。私は戻って欲しいのですが神様はなにを望まれているのかわかりません。よろしくお願いいたします。」

わたしは修道者は従順の誓願を立てているので、そのブラザーは間違えているだろうと返信しました。修道院の院長や長上が必ずしも立派な人とは限らなくても従わなければならないことはたくさんあります。従えることだけに従うなら、従順の誓願はかんたんなことになります。イエスは自分の十字架を背負って‥‥と言われました。世の中の弱い人の十字架までは言っていないので、毎日の生活の中の「これさえなければ」と思える苦痛や不便、不都合が自分の十字架になると思います。脚が痛いとか腰が痛い。物忘れするなどのことも立派な十字架になります。毎日の小さな死は、より豊かに生きるための大切な宝になります。毎日の生活の中で神様に喜ばれる小さな死を見つけて捧げていきましょう。渡辺和子シスターは「ていねいに生きるということは、毎日の暮らしの中に、ささやかな幸せを見つけるということでもあります。しかし、人間とは現金なもので、大きな幸せは強く記憶に残りますが、日常の中にある小さな幸せは、どんどん忘れ去ってしまいます。そこで、わたし自身が実践しているのは、毎晩寝る前に、その日経験したささやかな幸せに「神さまありがとうございました」と感謝することです。それも一つでなく三つ探すのです。感謝する出来事は、どんなことでもいいのです。同じことの繰り返しと思える日常生活の中でも感謝できることはたくさんあります。」と書いていました。(小さな死を積み重ね、感謝して生きる)。

小さな死を積み重ねてより豊かな生き方を探していきましょう。*(ka)

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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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